馬定延『日本メディアアート史』を読んだ

日本メディアアート史
馬定延(マ・ジョンヨン)
アルテスパブリッシング
売り上げランキング: 24,277

1970年以降の日本のメディアアートが、というより、「日本のメディアアート環境」がいかに成り立ってきたのか。作家論や作品論ではなく、歴史そのものでもなく、「なぜ彼らはその時その作品が作れたのか」を資料や証言からたどりなおした本。もとが博士論文なためか硬質な文体だけど(先日のトークショーで馬さん本人は「そういう本ばかりで日本語を学んだため」と言っていだけど)すごくリーダビリティが高くてあっという間に読めた。

かつてないスピードでテクノロジーが発展しその期待が極限まで高まっていた時代、その期待を動員せんとする国や企業が、未来ビジョンとしての「テクノロジーの過激な使用」を求めてアーティストに特権(技術や舞台)を用意した。ある時点までの日本のメディアアートがその「特権性」のことだったことを本書は繰り返し確認している。そしてその時代の寵児としての側面をふくめた多くの「はかなさ」ゆえに、時代を経たメディアアート作品を正当に評価することは極めて難しい。しかしそれでもメディアアートとその作家が好きだという筆者がとり得たもっとも誠実な態度が本書の歴史記述なんだろうと理解した。八谷和彦さんが「鏡はもっとも理想的なメディアアートのかたち」ということを言っていたけど、この本もある種の人々にとっては自分の姿を映す鏡のように見えるのではないかと思った。


UIを流用するUI

以前iOSアプリを開発したときはまだiPhone6が発売されていなかった(し、iPhone6のネイティブ対応もまだしていない)ので、iPhone6系もターゲットにした開発は今回が初めてになる。デザインを組み込む段になって、さてSlicyは@3xの画像書き出しに対応したのかなと思って見てみると、PhotoShopCC2014がアセット生成に対応したのでそっちを使えということになったらしい。PsCCでのアセット生成の方法もSlicy譲りというか、画像に書き出したいレイヤーやグループの名前を「xxxx.png」などの定形にすることで自動的に認識されアセットフォルダに書き出される仕組みのよう。フォルダと解像度の指定も空レイヤーやグループの名前に書いて認識させる。

むかしGenekistiScopeのaiスクリプト版を作ったとき、同じようにillustratorのUIを利用してスクリプト起動時のレイヤーの表示状態からアプリの動作を決めることを思いついてその貧乏臭さが気に入っていたんだけど、本家のAdobeが同じ仕組みになってるのが泣かせる。この「ありもので間に合わせる」感じというか、まかないめしがうまそうな感じ、他のツールではあんまり見ない気もするんだけどほかにもあるだろうか。


『親愛なる』を再度紹介する


昨年いとうせいこうさん、ボストークチーム(伊藤ガビン+いすたえこ+ucnv)、BCCKSでつくったパーソナライズ小説『親愛なる』が東京TDC賞 2015のRGB賞を受賞した。RGB賞(おもにスクリーンメディアの作品を扱う部門賞)なのに作品形態が紙の本、しかも作品のコアがその本そのものでもそれをつくるWebサービスでもないという壮絶なわかりづらさのなか評価をいただけてありがたい限りなのだけど、それにしてもわかりずらいということでもろもろ情報を集めつつ再発売を告知しておきます。

「親愛なる」の原型となった物語はもともと、97年にRIMNETからせいこうさんが依頼されてメールで配信される連載小説として始まった「黒やぎさんたら」という企画。メールの誤配から展開していくという筋立てと、メールアドレスをはじめとする読者のパーソナルな情報を小説内に紛れ込ませるという仕掛けはこの時点で企画され、当時は専用の配信システムがあったわけではなくせいこうさんの原稿をもとにRIMNETのひとが差し替える情報を手で修正(!)してメール送信していたんだそう。

とここまでは97年の話。みなさん97年ごろのメールって保存していますか? 僕はしてないです。

電子出版の文脈でもデジタルベースで制作されネットで配信されたコンテンツはむしろ物理的な保存性が低くなることがあるといわれるけど、当時最先端の企画だった「黒やぎさんたら」はそれゆえ顧みられることなく月日は過ぎ、またせいこうさんもPCのクラッシュやリプレースを経るうちに原稿を散逸していたところ、ふとその企画を思い出してツイートしたところからこの物語のもう一つの運命が始まる。

このツイートを見た当時の「黒やぎさんたら」メールの購読者の方が当時のメールを保存したマシンを保管しており、メール小説のデータをサルベージしてせいこうさんにメール送付したのだそう。これはなかなか感動的な話でありつつ、小説の展開やテーマに符合している意味でもおもしろいエピソード。

これを受けて、この当時は(おそらく)すごく限られた読者にしか届けられなかったであろうこの小説を現代の環境でアップデートして改めて読者に届けられないだろうか、というオファーがせいこうさんからボストーク組(ガビン、いす、ucnv)に持ちかけられる。

twitterなどソーシャルメディアと連動した小説として展開するようなアイデアも出たそうなんだけど、でもそれ普通だしそんなに面白そうでもないし、と煮詰まっていたところ、BCCKSを使ってパーソナライズされた小説が載った紙の本が届けられるとおもしろいんじゃないかと考えたのはucnvさんで、彼は以前僕がBCCKSで作った『kokoro sorted』という夏目漱石『こころ』の全文を文字種でソートしたテキストをそのまま紙の本にしたものを手にしたことがあって、そのときに感じた「紙の本になってることによるインパクト」がこのプロジェクトにも使えるんじゃないかと考えたのだそう。



kokoro sorted』 youpy著


そのあといろいろあってリリースは大幅に遅れつつ、昨年夏に期間限定で販売したというのが経緯のあらましなんだけど、TDC賞展での展示やその場での初見の方との受け答えでも改めて思ったのは仕組みの一通りの説明を聞いてふーんと思う感じと、実際に自分の名前が物語に埋め込まれた紙の本を読み進めるときに受ける感覚とのギャップは埋めがたいものがあるなということで、なのでちょっとでも興味があるなら今回の受賞記念再販売の機会でぜひ体験いただきたいなと思うわけです。

  • 「親愛なる」いとうせいこう著
    • BCCKSで5月末まで販売するほかTDC賞展の会期中ギンザ・グラフィック・ギャラリーでも注文できます
    • あと自分以外のパーソナライズ情報を入力して送れるギフト用画面もあるのでプレゼントにもどうぞ。

渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性』


福地さんが「ここ最近に出たインタフェース関連の本の中では間違いなく、群を抜いて面白い」とおっしゃっていたので興味を持って読んだ。NTTコミュニケーション基礎科学研究所で人間の知覚、とくに触覚を利用したインターフェイス研究やメディアアーティストとのコラボレーションを行う筆者が、自身の企画参加したワークショップや作品を紹介しながら、触覚について人間が無意識に行っている記号的解釈を活用することによるコミュニケーションの可能性について解説した本。感覚(触覚)の記号解釈の分類やそれぞれを利用した表現やコミュニケーションの方法論の違いが明快に分析されていてものすごくわかりやすい。

氏の関わる作品は21_21 DESIGN SIGHT『これも自分と認めざるを得ない展』とかICCでのワークショップで目に触れているはずなんだけど恥ずかしながらぜんぜん認識してなかった。「心臓ピクニック」(聴診器で自分の心音を録音してその鼓動を箱型のデバイスで再生させせることで「心臓を可触化」させ、その自分の一部になったような箱型デバイスを自分や他人で触ることによる感覚を楽しむワークショップ)はすごく楽しそう。

あと、そこまではまあわりとよくなじみのある感じの触覚に関する議論のなか、最後に登場する触覚によるコミュニケーションの最先端としてのフェイシャルマッサージ(ファセテラピー)とその理論化についての話がすごいおもしろかった。ファセテラピーの手技はそのマッサージの刺激の方法、強弱、使う手の部位、そしてマッサージのストロークの時間的配置についての知見を「触譜」と呼ばれるマッサージの楽譜に記録するのだそうで、触譜を分析することで「人を癒やすマッサージのアルゴリズム」が(ある程度)定義できるのだという。なんというかフロンティアあるなーというか、ふつうにマッサージのビジュアライズとか音楽の同期とかもできますよね(たぶんもうそういうのも進んでると思うけど)。こういうぜんぜん違う分野が「触覚」というインターフェイスで繋がってコミュニケーションの再定義がが行われているのはすごいおもしろい。


VRと主観モデル

画面内にバーチャルな「鼻」を表示するとVR酔いが低減される!?―海外研究結果 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

Oculus RiftのようなHMDによるVR体験で起きやすいいわゆる「3D酔い」を低減するために、視界の中央付近に鼻(に見えるもの)を置いておくと効果があるという記事がおもしろいなと思って読んでたんだけど、同じくHMDでの主観体験ゲームを作る際のベストプラクティスについてのGDC2014のセッションをまとめた記事があったのを思い出した。これもおもしろかった。VRゲームで視野にプレイヤーキャラクターの身体が見切れるアニメーションを作るためのベストプラクティスとして「モデルの首から上をなくす(あると視野に干渉するので)」とか「そのモデルの影が出ると首なしになってだめなので出さない」とか他の用途では出てこないノウハウが出てくるのがいい。

[GDC 2014]Oculus VRがRiftの開発キットで得た知見による「バーチャルリアリティ開発のベストプラクティス」 - 4Gamer.net

主観視点のVRゲームってリアリズムの到達点になるようにも思うけど、実際は(すくなくとも現時点では)むしろ嘘をたくさんつく必要があるらしいのが興味深い。


ツッコミはメタデータ

以前ちょっと考えていたことを今日別の話題で思い出したので自分にリマインドしておく。



ツイートの末尾に付加するハッシュタグをツイート本体へのツッコミとして使うことをもうなんかみんな当然のことのようにしていて(「#よくない」とかで検索すると使われかたがよくわかる)、まあこれ使われかたとしてはかつてなら「(よくない)」みたいなカッコ書きで行っていたしぐさがアップデートされたとも言えると思うんだけど、ハッシュタグとして表記することによるシステム表示上での強調効果(リンクテキストとして色が変わる)が狙われていたり、Twitterというシステムのルールを通過することによって本来ツイート主が書いたものであるそれが「世間の冷たい反応」として読まれることが期待されていたりするのではないか。

そしてむしろそもそも、いわゆる「ツッコミ」という行い自体がハッシュタグがそうであるような「メタデータ」だとも言えるのではないか。この発想はなにか別のかたちで使えるような気がしている。


テンキー

こないだ携帯電話会社で契約変更の手続きをする機会があり久しぶりに行ったのだけど、その手続の途中で、「登録する暗証番号を入れてください」といって、いわゆる普通の電卓を手渡された。

一瞬何のことかわからなかったんだけど、つまり、その電卓でなんらか計算をしろというのではなく、テンキーで4桁の暗証番号を押してから電卓を店員に渡して伝えるという単なる数字のメモ帳としてそこでは電卓が使われているらしかった。ちなみにそれ以外の契約書類はiPadの契約処理用アプリで行われており、サインもiPadに直接指で書いているにもかかわらず、なぜか暗証番号だけはそんなギャグみたいな手順で入力させられるのだった。

紙のメモに暗証番号を書いたりするのは確かにちょっといやだなという気もするんだけど、iPadのアプリで入力させるのに問題があるとは思えないので、なぜそんな手順になっているのかよくわからないし、なにより電卓の使用方法として動揺するほど間違っていた。


渡邊恵太『融けるデザイン』

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論
渡邊恵太
ビー・エヌ・エヌ新社 (2015-01-21)
売り上げランキング: 4,510

コンピュータのインターフェイス研究の世界ですごくユニークなスタンスで研究をされている渡邊恵太さんの待望のインターフェイスデザイン理論書。ようやく読めた。

冒頭から宣言されるように、世界は既にすべての情報を飲み込んだ1つのメディアとしてのインターネットと、それに文字通り「触れる」ためのインターフェイスとしてのセンサーを持ったコンピュータとソフトウェアとが「融けた」環境にある。こうと決まった形をもたなくなった環境が「手ごたえ」を持つとき、そこで何が起きているのか。たとえばこの融けた環境を爆発的に広げたといってよいiPhoneのインターフェイスで、ユーザーはなにを経験しているのか。そうしたインターフェイスの身体論を「自己帰属感」というキーワードで解説していく。

アフォーダンスについて紹介、解説する本は世にあまたある。デザインにおいてアフォーダンスの考え方が重要だとする本もたくさんある。しかしたぶんこの本はそうではなくて、 アフォーダンスに代表される生態心理学の世界観において、情報のデザインとはなんであるか を問いなおす本なんだと思う。身体性が重要だからといって「モノ」が重要なわけではない。情報であったとしてもその持続のあり方によって主観的なリアリティが生まれる(ここの議論はインターネット・リアリティ研究会の話にも通じているなとおもった)。そのように発想することで、プロダクトデザインを超え、メタファに堕さない、まったりとしてコクのあるインターフェイスが生まれるのだろう。


日常のラベリング

MacroDroidで体調日記をつける [2015-02-14]で始めたPebbleで体調日記をつけるの、いろいろ変えながら続けている。もはやぜんぜん体調日記ではないような気もしてるけど。

good / nice / bad期

最初は「good!」「nice」「bad」の3段階で1時間ごとの自分の気分を入力することにしてたんだけど、平日の昼間は当然仕事中なわけで、仕事の途中だとgoodでもniceでもないよなーと思うタイミングが多かった。あとちょっと気が立ってるみたいなときもbadっていうのは選びにくかった。

happy / busy / bored / sigh / sad期

ふつうに仕事してるときの「busy」と仕事してないときの「bored」という区別に変えてみたら選びやすくなった。さらにに気分がよいときの「happy」とすごく気分が悪いとき用の「sad」を作って(pebbleアプリで上下ボタンのダブルクリックに割り当てた)、あとちょっとなんかなーという気分をすくうための「sigh」を設けた。

happy / busy / relax / sigh / sad期

ただしかし「bored」でもないな…と思って「relax」にしてみた。こっちのほうが選びやすい。というのが現在。

happy / sigh / sadはほとんど押さなくて、ほとんどの気分はbusyかrelaxになってるんだけど、でも実際はbusyとrelaxの間に忙しいってほどはないけどなんかしてる、という気持ちの時があって(移動中とか)、ここをもう一段階分けてもいいのかなと考えている。でもなんてラベルにすればいいのかよくわからない。「usual」とかかな。


ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』を読んだ


 オンライン動画について共に語り、笑い、掘り下げるにつれ、マイクはふと動きを止め、真剣な表情で私の方を向いた。「お願いがあるんだけど」と、彼は言った。「ママに話してもらえるかな? 僕はインターネットで何も悪いことはしていないって」。私がすぐには答えなかったため、彼はさらに続けた。「つまり、ママはオンラインのものは何でも悪いと考えてる。あなたは話がわかるみたいだし、それに大人のひとだから、彼女に話してくれる?」
 私は微笑み、そうすると約束した。
 この本がまさにそれである。ティーン(13歳から19歳の若者)のネット上の営みを、彼らを心配する人々、すなわち親、教師、政治家、報道関係者、または他のティーンたちに説明する試みである。

ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』 - はじめに

素晴らしい本だった。

膨大な当事者インタビューを通して、(とくにアメリカの)ティーンエージャーのソーシャルメディアの受容のかたちについて、大人たちの先入観からの誤解や恐れからの排除が見えなくしているものをていねいにひも解き、そこでティーンが本当はなにをしたくて、なにをしており、それに対して保護者である大人たちが本来はなにができるかを解説する本。

なのだが、それよりなによりこの本は、大人になると誰もがその感覚を忘れてしまうため取るにたらないことに見える、しかし彼(女)らにとってはほんとうに切実でそれゆえかならず隠されてしまう、「ティーンにとっての『自由』」というものがとても感動的に描き出されている。そこが稀有な本だと思う。

この本で強調されるのは、今も昔もティーンが求めるのは彼(女)らがティーンであること(保護され、監督され、主体的な行動が許されない)からつかの間離れられる「公的な場所」であり、かつて公園やモールがそうだったティーンにとっての「公的な場所」が、現在ではソーシャルメディアにしかないのだということで、それは大人たちが多くの選択肢のひとつとしてインターネットやソーシャルメディアを使うのとはまったく意味が異なる。べつにインターネットやソーシャルメディアが最適な場所だと思っているわけではないし、そのすべてを理解できているわけでもなく、自分たちがそうすることで親をはじめとする大人たちを心配させるのは本意ではないと考えているのだが、インターネットやソーシャルメディアがどういう場所であれ、自由にうろつき、いちゃつき、ふざけあい、自分たちのための空間をつくって社会と自分の関係を確かめられる場所がそこにあるのだとこの本の取材で多くのティーンは証言する。

これはかつてティーンだった自分を振り返ればだれでもでも思い当たる感覚だろう。また、ティーンだった自分が依拠していた場所にくらべ、インターネットやソーシャルメディアという場所がたいへんに「複雑」な環境であることも理解できるはずだ。だから、大人たちはティーンのインターネットやソーシャルメディアでの活動を認め、監視や排除を強めるのとは別のかたちで、彼らのソーシャルメディアを通じた健やかな「成長」を見守り促す必要があるのだとこの本は言う。

ティーンのネットリテラシーについて論じた章で、著者はWikipediaについて意外なほど紙面を割いている。ネットリテラシーの文脈でWikipediaについて大人(教師)がティーンに語ることといえばたいていその情報の不正確さや、鵜呑みにすることの安易さや紙の文献に当たることの大切さ止まりなのだが、それはティーンが手にしつつある新しい世界、「ネットワーク化されたパブリック」を理解する絶好の機会を手放しているのだと著者は言う。Wikipediaの各項目はさまざまな立場の人々がそれぞれの観点からその情報を高めるために参加し議論し、その経緯を履歴として記録しながら常に変化していく「公的な場所」として設計されている。ティーンの公共への切望をWikipediaのような可能性へと導いていくのが、あたらしい世界の「良識」になるんだろう。