イェスパー・ユール『ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム』を読んだ

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム
イェスパー・ユール
ニューゲームズオーダー (2016-09-30)
売り上げランキング: 73,497

half-real - New Games Order, LLC.
(発行元ニューゲームズオーダーのサイトでpdf版も販売中)


素晴らしく面白く、興奮したまま読み終えた。僕はこういう本を長らく待ち望んでいたんだと思う。

half-real』(原著は小文字つづりなんですな)は、デンマーク出身のゲーム研究者イェスパー・ユールの博士論文をもとに2005年に刊行された書籍で、すでにゲーム研究の古典とされる論考。原著から10年を経て刊行された待望の邦訳版がこの『ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム』で、これでようやく僕のような英語の原著を読み下せない人間もこの古典の内容に触れることができるようになったわけだけど、確かにこの本は「ゲームとは何か」「ゲームがコンピュータと出会ってなにが起きたのか」そして「ビデオゲームとはどういうものなのか」といった問いに、10年やそこらでは古びない議論や指摘を与えてくれる。例示されるゲームは『チューチューロケット!』とかでなるほどと思ったりするが、もちろんそういうことは本質とは関係なく、つべこべ言わずに読むべきという本。

訳者の松永さんも巻末で解説している通り、『ハーフリアル』の主張のひとつは先行する「ゲームの定義」に対する議論を整理し、6項目からなる包括的で説得力のある定義を提出しているところだ。この定義はこの本において「古典的ゲームモデル」だとされる。古典的というのはそれより新しいモデルがあるという意味ではない。本書のもうひとつの主張は、いま一般にゲームと呼ばれるものの大部分を指すところのビデオゲームは、この「古典的ゲームモデル」の全部ないし一部が、虚構世界の「実装」として利用され、ゲームモデルと虚構世界とが互いをうながしあうように経験される、新しいかたちの表現形式として発達したものとして考えるべきだというものだ。

僕が興奮したのは、ビデオゲームとは「ゲーム(古典的ゲームモデル)」に虚構世界が付加されただけのものなのではなく、虚構世界の出来事や行為の「現実的な側面」の実装としてゲームモデルが利用されているものなのであり、しかもそれはプレイヤーにとっては逆向きに経験される、つまりプレイヤーは虚構世界の舞台設定やキャラクターの意匠を通じて、そこに埋め込まれたルールを理解するのだという指摘だった。いわばプレイヤーが虚構世界の中にゲームを発見するという構造こそがビデオゲームの本質なのだ。これはこの本の議論からは飛躍した僕の妄想なのかもしれないけど、そのように考えると、僕が昔からビデオゲームのなかに見出そうとしていた感覚を説明できるように思えた。

ほかにもインターフェイスやインタラクションの分野に接続できそうなしびれるような指摘がたくさんあり、ゲーム研究の学術書という狭いカテゴリにどどまらず広く読まれるべき本だと思う。ぜひみんな読んでほしい。もっかいリンクを貼っておきます。


ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム
イェスパー・ユール
ニューゲームズオーダー (2016-09-30)
売り上げランキング: 73,497

half-real - New Games Order, LLC.
(発行元ニューゲームズオーダーのサイトでpdf版も販売中)


IDEプラグイン型の自動テストツール「Wallaby.js」を導入してみた

Wallaby - intelligent test runner for JavaScript, TypeScript, and CoffeeScript

BCCKSの組版エンジンに安定性と大規模な拡張が同時に求められる局面が生じてきたのでちゃんとテストを書いてからいじるようにしようとjsのテストフレームワークやら自動テスト環境やらを調べていたら、Intellij系のIDE(やVisual StudioとAtom)向けのプラグインとして提供され、テストのパス状態や結果がエディタのコード上に完全なかたちで統合されるというツール「Wallaby.js」を見つけたので導入してみた。1ライセンス$100でまあちょっと高いなと思うけど、1日使ってみてこれはテストうんぬんより開発ツールとして非常に便利なので確実に定着するしすでに誰かにオススメしたい感じがしている。

僕が使っているのはIntellij IDE(PhpStorm / Intellij IDEA)なのでIntellij プラグイン版のみの評価になる(Atomプラグイン版もどんな感じなのか気になるけど)。もともとIntellijのIDEには標準でもテストランナープラグインが提供されていて、それを使ってみるつもりでいろいろ調べていたんだけど、ブラウザjsのテストはjsTestDriverを起動してからブラウザを起動しないといけなかったり、いまいち乗りきれない感じがあった。Wallabyはプラグインにヘッドレスブラウザ(PhantomJS)が完全に隠蔽された形で統合されていて、テストフレームワークのインストールと設定(テスト対象のソースとテストソースの定義)をすれば実行過程のことはなにも気にしなくてもテストが実行されるようになる。導入が楽。

テスト結果のエディタ統合も想像した以上の完成度で、テスト側のソースの各行にカラーチップでテストのパス状態が信号のように表示されるのはもちろん、テストするソース側も現在のテストスイートでの各行のカバレッジ状態がやはりカラーチップで表示されるので、テストがぜんぜんないコードにテストを足していく今回のような場合でもモチベーションを上がりやすいし、キーになるロジックのテストを先に書こうといった判断もしやすい。コード修正後の反映パフォーマンスもまったく問題ない(これはまだテストが少ないせいかもしれないけど)。

Wallaby.jsのサイトからアニメgifを引用

さらに体験してみて眼からうろこが落ちたのは、Wallabyの環境だとほんとうに「テスト駆動開発」ができるということ。Wallabyプラグインはテストの状態だけでなく、テスト実行時の各行での出力やエラー内容もインラインで表示される(Chromeのjsデバッガのステップ実行状態とおなじ感じ)。コードにconsole.logを追記すれば即座にそのブロックに関するテストが実行され、出力された変数の値がインラインに表示される。Wallabyの環境でテストが書かれた環境でコードを書くと、まさにテストというエンジンに接続された動いているプログラムを動いたまま触っているような感覚で開発ができる。あまりテストツールをさわったことがないので他のツールでもできることなのかもしれないけど、これは新鮮だった。

なにしろきのう導入したばかりなのでもうちょっと使ってみないとわからない部分もあるけど(テストが増えるとどうなるかとか)、現時点ではWallabyによってコーディングの進めかた自体が変わりそうな気がしている。


馬定延『日本メディアアート史』を読んだ

日本メディアアート史
馬定延(マ・ジョンヨン)
アルテスパブリッシング
売り上げランキング: 24,277

1970年以降の日本のメディアアートが、というより、「日本のメディアアート環境」がいかに成り立ってきたのか。作家論や作品論ではなく、歴史そのものでもなく、「なぜ彼らはその時その作品が作れたのか」を資料や証言からたどりなおした本。もとが博士論文なためか硬質な文体だけど(先日のトークショーで馬さん本人は「そういう本ばかりで日本語を学んだため」と言っていだけど)すごくリーダビリティが高くてあっという間に読めた。

かつてないスピードでテクノロジーが発展しその期待が極限まで高まっていた時代、その期待を動員せんとする国や企業が、未来ビジョンとしての「テクノロジーの過激な使用」を求めてアーティストに特権(技術や舞台)を用意した。ある時点までの日本のメディアアートがその「特権性」のことだったことを本書は繰り返し確認している。そしてその時代の寵児としての側面をふくめた多くの「はかなさ」ゆえに、時代を経たメディアアート作品を正当に評価することは極めて難しい。しかしそれでもメディアアートとその作家が好きだという筆者がとり得たもっとも誠実な態度が本書の歴史記述なんだろうと理解した。八谷和彦さんが「鏡はもっとも理想的なメディアアートのかたち」ということを言っていたけど、この本もある種の人々にとっては自分の姿を映す鏡のように見えるのではないかと思った。


渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性』


福地さんが「ここ最近に出たインタフェース関連の本の中では間違いなく、群を抜いて面白い」とおっしゃっていたので興味を持って読んだ。NTTコミュニケーション基礎科学研究所で人間の知覚、とくに触覚を利用したインターフェイス研究やメディアアーティストとのコラボレーションを行う筆者が、自身の企画参加したワークショップや作品を紹介しながら、触覚について人間が無意識に行っている記号的解釈を活用することによるコミュニケーションの可能性について解説した本。感覚(触覚)の記号解釈の分類やそれぞれを利用した表現やコミュニケーションの方法論の違いが明快に分析されていてものすごくわかりやすい。

氏の関わる作品は21_21 DESIGN SIGHT『これも自分と認めざるを得ない展』とかICCでのワークショップで目に触れているはずなんだけど恥ずかしながらぜんぜん認識してなかった。「心臓ピクニック」(聴診器で自分の心音を録音してその鼓動を箱型のデバイスで再生させせることで「心臓を可触化」させ、その自分の一部になったような箱型デバイスを自分や他人で触ることによる感覚を楽しむワークショップ)はすごく楽しそう。

あと、そこまではまあわりとよくなじみのある感じの触覚に関する議論のなか、最後に登場する触覚によるコミュニケーションの最先端としてのフェイシャルマッサージ(ファセテラピー)とその理論化についての話がすごいおもしろかった。ファセテラピーの手技はそのマッサージの刺激の方法、強弱、使う手の部位、そしてマッサージのストロークの時間的配置についての知見を「触譜」と呼ばれるマッサージの楽譜に記録するのだそうで、触譜を分析することで「人を癒やすマッサージのアルゴリズム」が(ある程度)定義できるのだという。なんというかフロンティアあるなーというか、ふつうにマッサージのビジュアライズとか音楽の同期とかもできますよね(たぶんもうそういうのも進んでると思うけど)。こういうぜんぜん違う分野が「触覚」というインターフェイスで繋がってコミュニケーションの再定義がが行われているのはすごいおもしろい。


渡邊恵太『融けるデザイン』

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論
渡邊恵太
ビー・エヌ・エヌ新社 (2015-01-21)
売り上げランキング: 4,510

コンピュータのインターフェイス研究の世界ですごくユニークなスタンスで研究をされている渡邊恵太さんの待望のインターフェイスデザイン理論書。ようやく読めた。

冒頭から宣言されるように、世界は既にすべての情報を飲み込んだ1つのメディアとしてのインターネットと、それに文字通り「触れる」ためのインターフェイスとしてのセンサーを持ったコンピュータとソフトウェアとが「融けた」環境にある。こうと決まった形をもたなくなった環境が「手ごたえ」を持つとき、そこで何が起きているのか。たとえばこの融けた環境を爆発的に広げたといってよいiPhoneのインターフェイスで、ユーザーはなにを経験しているのか。そうしたインターフェイスの身体論を「自己帰属感」というキーワードで解説していく。

アフォーダンスについて紹介、解説する本は世にあまたある。デザインにおいてアフォーダンスの考え方が重要だとする本もたくさんある。しかしたぶんこの本はそうではなくて、 アフォーダンスに代表される生態心理学の世界観において、情報のデザインとはなんであるか を問いなおす本なんだと思う。身体性が重要だからといって「モノ」が重要なわけではない。情報であったとしてもその持続のあり方によって主観的なリアリティが生まれる(ここの議論はインターネット・リアリティ研究会の話にも通じているなとおもった)。そのように発想することで、プロダクトデザインを超え、メタファに堕さない、まったりとしてコクのあるインターフェイスが生まれるのだろう。


ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』を読んだ


 オンライン動画について共に語り、笑い、掘り下げるにつれ、マイクはふと動きを止め、真剣な表情で私の方を向いた。「お願いがあるんだけど」と、彼は言った。「ママに話してもらえるかな? 僕はインターネットで何も悪いことはしていないって」。私がすぐには答えなかったため、彼はさらに続けた。「つまり、ママはオンラインのものは何でも悪いと考えてる。あなたは話がわかるみたいだし、それに大人のひとだから、彼女に話してくれる?」
 私は微笑み、そうすると約束した。
 この本がまさにそれである。ティーン(13歳から19歳の若者)のネット上の営みを、彼らを心配する人々、すなわち親、教師、政治家、報道関係者、または他のティーンたちに説明する試みである。

ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』 - はじめに

素晴らしい本だった。

膨大な当事者インタビューを通して、(とくにアメリカの)ティーンエージャーのソーシャルメディアの受容のかたちについて、大人たちの先入観からの誤解や恐れからの排除が見えなくしているものをていねいにひも解き、そこでティーンが本当はなにをしたくて、なにをしており、それに対して保護者である大人たちが本来はなにができるかを解説する本。

なのだが、それよりなによりこの本は、大人になると誰もがその感覚を忘れてしまうため取るにたらないことに見える、しかし彼(女)らにとってはほんとうに切実でそれゆえかならず隠されてしまう、「ティーンにとっての『自由』」というものがとても感動的に描き出されている。そこが稀有な本だと思う。

この本で強調されるのは、今も昔もティーンが求めるのは彼(女)らがティーンであること(保護され、監督され、主体的な行動が許されない)からつかの間離れられる「公的な場所」であり、かつて公園やモールがそうだったティーンにとっての「公的な場所」が、現在ではソーシャルメディアにしかないのだということで、それは大人たちが多くの選択肢のひとつとしてインターネットやソーシャルメディアを使うのとはまったく意味が異なる。べつにインターネットやソーシャルメディアが最適な場所だと思っているわけではないし、そのすべてを理解できているわけでもなく、自分たちがそうすることで親をはじめとする大人たちを心配させるのは本意ではないと考えているのだが、インターネットやソーシャルメディアがどういう場所であれ、自由にうろつき、いちゃつき、ふざけあい、自分たちのための空間をつくって社会と自分の関係を確かめられる場所がそこにあるのだとこの本の取材で多くのティーンは証言する。

これはかつてティーンだった自分を振り返ればだれでもでも思い当たる感覚だろう。また、ティーンだった自分が依拠していた場所にくらべ、インターネットやソーシャルメディアという場所がたいへんに「複雑」な環境であることも理解できるはずだ。だから、大人たちはティーンのインターネットやソーシャルメディアでの活動を認め、監視や排除を強めるのとは別のかたちで、彼らのソーシャルメディアを通じた健やかな「成長」を見守り促す必要があるのだとこの本は言う。

ティーンのネットリテラシーについて論じた章で、著者はWikipediaについて意外なほど紙面を割いている。ネットリテラシーの文脈でWikipediaについて大人(教師)がティーンに語ることといえばたいていその情報の不正確さや、鵜呑みにすることの安易さや紙の文献に当たることの大切さ止まりなのだが、それはティーンが手にしつつある新しい世界、「ネットワーク化されたパブリック」を理解する絶好の機会を手放しているのだと著者は言う。Wikipediaの各項目はさまざまな立場の人々がそれぞれの観点からその情報を高めるために参加し議論し、その経緯を履歴として記録しながら常に変化していく「公的な場所」として設計されている。ティーンの公共への切望をWikipediaのような可能性へと導いていくのが、あたらしい世界の「良識」になるんだろう。


初期アニメーションの「声」を聴く


『アニメーションの表現史」と銘打たれた本書は、20世紀初頭に誕生したアニメーション映画が、作画や音響の技術革新を経て商業化された勃興期においてどのような表現を獲得してきたのかを扱う論考集だ。といっても、アニメーション映画の通史を追うような内容ではない。むしろ、アニメーションの歴史のような概観ではかいつままれてしまうような、ごく最初期のアニメーション映画の魅力を知るためには、アニメーション以外の歴史を知る必要があるのだとこの本は言う。

わたしたちは古い技術や文化を、しばしば稚拙なもの、後の発達によってとうに乗り越えてしまったものとして捉えてしまう癖がある。もしこの『愉快な百面相』もそうした稚拙な技術によっているただの歴史的遺物に過ぎないのなら、わたしたちは右にあげたささいな疑問に対して、単純に技術や文化や配慮の欠如によって答えることができるはずである。
だが、はたして、それほど簡単な問題だろうか。答えは意外に長くなる。

細馬宏通 - ミッキーはなぜ口笛を吹くのか: アニメーションの表現史

本書に取り上げられるアニメーション映画のほとんどは、いまやアーカイブサイトやYouTubeなどでたやすく目にすることができる。本書はそれらの作品を実際に鑑賞しながら、その「現在の眼からは退屈な」作品を何度も観ながら読み進めるといい。作品のひとつひとつのディテールをなぞり、「なぜこの表現が選ばれたのか?」を問い直すなかで、アニメーションという雄弁な表現形式のそばにもう一つの雄弁な文化があったことが示されていく。一見緩慢で稚拙な誕生期のアニメーションに、フライシャー兄弟のロトスコープに、『蒸気船ウィリー』に、MGMアニメーションの音楽やルーニー・トゥーンズの饒舌に魂を吹き込んだのは、他ならぬ見世物小屋のヴォードヴィリアンやパフォーマーたちの手業であり、踊りであり、声である。

という、作品の線と声をたどる論考そのものに、自身が演奏家・ヴォーカリストであり一人語りの名手であるところの細馬宏通akaかえるさんの「語り」が感じられるところも本書の魅力ですね。


梅田望夫「ウェブ進化論」

■梅田望夫「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる」を読んだ。当然ながら、基本的には知ってたりわかったつもりになっている話が書いてあったという感じだったんだけど、それでも十分わくわくしながら読めた。意味ありげな図とか表とかグラフの類はいっさいない(URLはあるけど。こういうのわざわざ入力して見ないよなー。どっかにリンク集ないんかしらん)。あくまでいま起きていることと、これから10年以内に起きるかもしれないことをそれぞれ読者に想像してもらおうということなんだろう。

個人的におもしろかったのはこのあたり。

 私は、日本のメディア企業の幹部から公演を頼まれると必ず、(…)ウィキペディア日本版のそのメディア企業の項目に何が書かれているかを、幹部皆に見てもらう。(…)大概の質問は、誰が何の資格でこれを書いているのかということと、間違いも一部にあるから信用できないじゃないか、というところに落ち着く。そこで私は、幹部たちにどこが間違っているかを聞き、講演会場からリアルタイムでこの項目に修正を入れてしまう。

なーるほど。

■しかしこの本を読んでいてあらためて思ったのは、いまの状況で痛快なのは、よりによってgoogleなんて綴りも響きもいいかげんナメた名前の会社が、「IBM(International Business Machine)」とか「Microsoft」とかいったまがりなりにも通りのいい名前の巨大な会社を振り切って世界に君臨しつつあるってとこなんだよなー、と。したがって、「あちら側」の「本当の大変化」に備えてとりあえずわれわれは、googleよりもっとナメた社名を早急に考えていく必要がありそうだ。もうなんか、発音できないとか。コンピュータしか読めないとか。音がバンド名みたいな。あるいは社名がだれでも編集可能とか。

それでいうとさすがなのは、「はてな」ってやっぱわりといい線いってるのであった。梅田望夫も言っている。

 二〇〇五年三月二八日に「(株)はてな」という変な名前の会社の取締役(非常勤)になった。

変な名前なのである。「はてなは日本のグーグルである(社名のセンスが)」と言っても過言ではないのかもしれない。



柴田元幸『翻訳教室』

柴田元幸『翻訳教室』が大変におもしろい。

これ、日本語タイトルは『翻訳教室』といたってシンプルになっているけれど、表紙にある英文タイトルでは「Lectures on Literary Translation from English to Japanese」となっていて、内容は東大文学部での翻訳演習の講義内容を収録したもの。柴田元幸氏といえば東大教授にしてアメリカ現代文学の名翻訳家として絶大な影響力を持ち、またいっぽう弱腰な自身のパーソナリティを「弱腰だけには自信がある」とばかりに語る名エッセイでも知られる人物だけど、その柴田さん(あんまり「柴田先生」って感じじゃないのね)が学生といっしょに、現代作家の英語の文章を、その味わいをできるかぎり残しながらどんな日本語に訳したらいいかについて、ああでもないこうでもないと知恵を絞る模様をそのまま収録しているのがこの本だ。

僕もまだ全部読み切ってはないんだけど、とにかく刺激的。糸井重里『糸井重里の萬流コピー塾』とか枡野浩一『かんたん短歌の作り方』みたいな、お題に対する解答を達人が添削する、という本としても読めるし、すべてのレッスンについて原文と学生による試訳とその細部に関する議論、議論で添削された学生訳、さらに柴田さんの模範訳がそれぞれ載っていて、いろんな読みかたができたり勉強になったりして楽しいというのもある。でもそれよりやはりしびれるのは、柴田さんと学生の対話のなかで、作品としての英文に語られる「イメージ」というものが「きわめて厳密なもの」として扱われ、その厳密さを可能なかぎり同じ解像度の日本語に翻訳することに、どうにも不思議なほどの情熱が注がれている部分じゃないだろうか。僕なんかが読むとそれは、いわゆる文学への情熱というよりはもうちょっと自動的な、コードオプティマイズやスペックの大幅に違うハード間のプログラムコンバート(いわゆる「移植」!)へのハッカーやギークのむやみな情熱に、むしろ近しいように感じる。

ちなみに、村上春樹氏をゲスト講師に招いた講義も収録されていて、そのなかで村上氏がなぜかいきなりウェブ進化論を語っていたのでせっかくだし引用。

柴田 読者の声は聞かれますか?
村上 インターネットでウェブサイトをやっていたときには全部読みました。僕がそのときに思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているのかもしれないし、偏見に満ちているのかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。(…)
村上 たとえばウェブサイトに批評家がメール送ってきたとしますよね。そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。よく書けている評論かもしれないけど2000分の1。僕がとらえるのもそういうことです。
柴田 たとえばそれが、新聞の書評なんかだと、あたかも一分の一のようにふるまってしまう。そういうことですね。
村上 そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険性もあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。ものすごくうれしいです。だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですね。(…)