悪紫苑『ヴィーナス・アタッカーズ』を読んだ


ヴィーナス・アタッカーズ』 悪紫苑著

BCCKS / ブックス - 悪紫苑著『ヴィーナス・アタッカーズ』 http://bccks.jp/bcck/127334/info

12月から読んでた『ヴィーナス・アタッカーズ』をようやく読み終えた。作者の悪紫苑さんは初めて書いた小説だという前作『時空間エンタングル』からBCCKSで作品を公開してくださっていて、2年の執筆期間を経て発表された2作目がこの『ヴィーナス・アタッカーズ』。前作につづいてがっつりしたSF小説です。

人類により開発が進んだ金星——気温460度、90気圧、濃硫酸の雨が降る過酷な地表と、その上空50キロメートルに浮かぶ空中都市と飛行機たち——を舞台に、「大気圏内を飛びたい」という志願からまんまと金星に配属された飛行機乗りである主人公が、奇妙なめぐり合わせと不審なアクシデントを発端として大きな事件(?)に巻き込まれていく…という具合。前作の感想にも書いた通り、理学研究者である(んだと思う)著者の科学知識によるSF考証と、それをテコにして広げられた科学的大風呂敷の濃密さが持ち味ながら、ちゃんとエンターテイメントとしても最後まで(最後の最後まで…)おもしろく読めて満足した。

あとなんというからしいなあと思ったのはこの本の4章は「降下」というタイトルなんだけど、この章では確かに最初から最後まで「降下」しかしていないという。


RYU-TMR『RYU-TMRのレゲー解体劇場 セガハード編』を読んだ

前巻も読んでなかったのでどんな感じなのかなーと思って読んでみたんだけど、それほどはまる感じではなかった。ゲームの公式の設定やらキャラクターがマンガに出てくる感じは昔ながらのゲームネタマンガっぽくて楽しかった。
食マンガ的にレトロゲームが出てくるマンガがあるとおもしろいかな。謎解きがかならずレトロゲームネタになってるサスペンスマンガとか(詠坂 雄二『インサート・コイン(ズ)』が多少そんな感じだったか)。


初期アニメーションの「声」を聴く


『アニメーションの表現史」と銘打たれた本書は、20世紀初頭に誕生したアニメーション映画が、作画や音響の技術革新を経て商業化された勃興期においてどのような表現を獲得してきたのかを扱う論考集だ。といっても、アニメーション映画の通史を追うような内容ではない。むしろ、アニメーションの歴史のような概観ではかいつままれてしまうような、ごく最初期のアニメーション映画の魅力を知るためには、アニメーション以外の歴史を知る必要があるのだとこの本は言う。

わたしたちは古い技術や文化を、しばしば稚拙なもの、後の発達によってとうに乗り越えてしまったものとして捉えてしまう癖がある。もしこの『愉快な百面相』もそうした稚拙な技術によっているただの歴史的遺物に過ぎないのなら、わたしたちは右にあげたささいな疑問に対して、単純に技術や文化や配慮の欠如によって答えることができるはずである。
だが、はたして、それほど簡単な問題だろうか。答えは意外に長くなる。

細馬宏通 - ミッキーはなぜ口笛を吹くのか: アニメーションの表現史

本書に取り上げられるアニメーション映画のほとんどは、いまやアーカイブサイトやYouTubeなどでたやすく目にすることができる。本書はそれらの作品を実際に鑑賞しながら、その「現在の眼からは退屈な」作品を何度も観ながら読み進めるといい。作品のひとつひとつのディテールをなぞり、「なぜこの表現が選ばれたのか?」を問い直すなかで、アニメーションという雄弁な表現形式のそばにもう一つの雄弁な文化があったことが示されていく。一見緩慢で稚拙な誕生期のアニメーションに、フライシャー兄弟のロトスコープに、『蒸気船ウィリー』に、MGMアニメーションの音楽やルーニー・トゥーンズの饒舌に魂を吹き込んだのは、他ならぬ見世物小屋のヴォードヴィリアンやパフォーマーたちの手業であり、踊りであり、声である。

という、作品の線と声をたどる論考そのものに、自身が演奏家・ヴォーカリストであり一人語りの名手であるところの細馬宏通akaかえるさんの「語り」が感じられるところも本書の魅力ですね。


「ゲームの身体化」「身体のゲーム化」に見るメディア芸術としてのコンピュータゲーム(「メディア芸術アーカイブス」掲載コラム)

初出:「メディア芸術アーカイブス 15 YEARS OF MEDIA ARTS」(BNN新社 2012-03-01)


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マニュアルUIとオートマUI

メディア芸術が提唱されはじめた1997年は、当時「次世代機」と呼ばれた3Dグラフィックチップを搭載したコンシューマハードの登場から数年を経て、各ハードの機能を引き出し表現を洗練させたゲームが出そろった円熟期にあたります。3Dグラフィックによるゲーム表現が一般化、高度化する一方、それまでの2Dゲームでは明快だったゲームの操作系とゲーム画面との直交性、直感的なプレイ感覚を実現することが想像以上に難しいことも明らかになるなか、このころコンピュータゲームのインターフェイスに関する方向性、プレイヤーに提供する感覚へのアプローチが、大きく二つの流れに別れたと筆者は考えています。 そのひとつは、ゲームのインターフェイスにおいてプレイヤーの操作とゲームでのアクションの直交性を重視し、多くのボタンや複雑な操作がゲームプレイにおいて習熟されることを前提とする、いわば「ゲームを身体化」させるアプローチです。この流れのなかにあるゲームはハードの進化に応じて映像表現や感覚を精緻化し続けながらも、旧来のコンピュータゲームが持っていたゲームへの没入感、ゲームプレイの競技性、スポーツ性をスポイルしないまま「ゲームでなければ味わえない体験」を実現してきたと考えることができます。本稿ではこの「ゲームの身体化」アプローチのゲームを「マニュアルUI」のゲームと呼びます。もう一つは、ゲーム内でのプレイヤーキャラクターのアクションやゲームの展開と、コントローラーで行う操作との直接的な対応を緩めるかわりに、ゲームにおいてプレイヤーが「したいこと」が実現されるようなゲームデザインを施すことで、結果的にプレイヤーの満足や爽快感を演出するアプローチです。前者になぞらえるならばこちらは「身体のゲーム化」が目指されていると言えるでしょう。この「身体のゲーム化」指向を「オートマUI」のゲームと呼ぶことにします。「ゲームの身体化(マニュアル UI)」と「身体のゲーム化(オートマ UI)」は、一見同語反復のように見えながらも、その実まったく対称的なアプローチです。またこの2つは現在の、熱狂的なファンが支持するマニアックでコアなゲーム群と、ライトユーザーをターゲットにしたゲームであるようなないようなゲーム群とを象徴しているとも言えるでしょう。本稿では、この「マニュアルUI」「オートマUI」という2つのアプローチからこの15年のコンピュータゲームを概観し、メディア芸術としてのコンピュータゲームを図式化する試みをしたいと思います。

3DアクションとオートマUIの発展

1998年「ゼルダの伝説 時のオカリナ」は、当時模索されていた3Dアクションゲームのあり方に当時の任天堂が提出した回答といえるものであり、オートマUI アプローチの端緒だったと筆者は考えています。Zボタンでリンクの操作を敵と対峙し間合いを保つ戦闘状態のふるまいに移行するシステムや、制御が難しい3次元空間でのジャンプアクションを「プレイヤーにジャンプブタンを押させない」というデザインにより解 決するなど、3次元になって複雑になったアクションゲームを誰でも遊べるようにするアイデアはこの時点で多く生まれています。この後も任天堂の3Dアクションゲームに対する意識は2007年「スーパーマリオギャラクシー」や最新作である 2011 年「スーパーマリオ3Dランド」まで一貫しています。単純で直感的なコントローラー操作をゲーム内でのキャラクターの状態や状況に合わせインテリジェントにゲームプレイに展開していくオートマ UIは任天堂のアクションゲーム以外にも見ることができます。なかでも、巨大な「動く平面」をプレイヤーのアクションの舞台とすることでダイナミックなシーンと操作の平易さや手応えを実現する「巨像」というアイデアを提出した2005年「ワンダと巨像」などはオートマUI指向の強い作品と言えるでしょう。

音楽ゲームとマニュアルUI指向

一方、マニュアルUI指向は 2001年「Halo」をはじめとするコアゲーマー向けの FPSや、 2005年「モンスターハンター ポータブル」のような、シビアで正確な操作を要求するアクションゲームが代表となりますが、1997年「ビートマニア」や1998 年「Dance Dance Revolution」などに始まるリズムアクション、音楽ゲームの流れにも見ることができます。同じく音楽やリズムをモチーフにしたゲームの中でも2001年「Rez」や2008年「Wii Music」などが「音楽がプレイヤーに合わせてくれる」ようなプレイ感覚を目指している(オートマUI指向)のに対し、「ビートマニ ア」やあるいは2006年「リズム天国」などは、シビアなリズムパターンをひたすら体にたたき込んでリズムと同期できるようになってからがプレイの楽しみになっているわけです。このようにとらえると、マニュアルUI指向のゲームは各年代においてさまざまな形で提供されていると見ることができるでしょう。

センサー入力による身体のゲーム化

一般的なコントローラではなくセンサーや外部デバイスによって体の動きを直接ゲームに取り込むアプローチも、一種のオートマUIと考えられます。2000年「コロコロカービィ」、2002 年「EyeToy:Play」、2004年「 まわるメイドインマリオ」など に単発的に組み込まれていたセンサー入力によるゲームインターフェイスは、Nintendo DSやWiiといった任天堂ハードに標準の操作系として採用されることにより本格化しています。2007年「Wii Sports」ではスポーツゲームをリアルに感じさせるための巧みな ジェスチャデザインや演出(Wii リモコン内蔵スピーカーからの効 果音など)が秀逸でした。一方で、センサーや動きによる 操作方法は認識精度や速度に限界があるため、マニュアルUIアプローチの作品はあまり登場していません。巨大な専用コンソールでの操作でマニュアル操作、コックピット感覚を強調した 2007年
「鉄騎」はセンサーではないものの身体化のひとつの形とは言えるかもしれません。

人工知能/コミュニケーション/ネッ トワークのゲーム化アプローチ

オートマUIアプローチによるゲームの系譜の一つとして、1999年「シーマン 〜禁断のペット〜」をはじめとする人工知能とのかかわりをモチーフとしたゲームがあります。これらのゲームは、人間との対等なコミュニケーションには不十分な機能しかない人工知能プログラムを、あえてコミュニケーション手段が限定されたゲーム内のパートナーとして設定することで、「意志疎通できた(ように感じられる)!」という実感にフォーカスさせるようにデザインされています。2003年「くまうた」では演歌歌手であるくまが作るでたらめな演歌の歌詞を、ダメ出しを繰り返すことでその持ち味を引き出し、でたらめながらも感動的な演歌を二人三脚で生み出す、という奇跡(!)のコラボレーションが生まれますが、これは身体としてのコミュニケーションがゲーム化されたオートマUIと考えることができるでしょう。 センサー入力同様、マニュアルUIアプローチでは人工知能がゲームそのもののモチーフになることは少ないですが(人工知能の限界、不確実性が身体化の疎外要素として働くからでしょう)、それと対 置されるのがマニュアルUIゲームにおけるネットワークマルチプレイだと言えるのではないでしょうか。競技性、スポーツ性の高いマニュアルUIアプローチのゲームは必然的にリアルタイム指向の対戦プレイやマルチプレイを特徴とすることになるわけです。

「HEAVY RAIN」と Kinect

ここまで見てきたマニュアルUI、オートマUIアプローチの系譜における最先端として近作を挙げるとすれば、その一つは2010年「HEAVY RAIN 心の軋むとき」になるでしょう。「HEAVY RAIN」は本稿で見たマニュアルUI、「ゲームの身体化」アプロー チを極端な形で推し進めることで コンピュータゲームの新たなあり方を模索した意欲作です。「HEAVY RAIN」では、これまでマニュアルUIのゲームで特徴として挙げてきた競技的なゲーム内容ではなく、アドベンチャーゲームのような物語主体のゲーム デザインとしてこのアプローチが 採用された特異なゲームです。そこでは通常のゲームであれば省略されるプレイヤーが操作する人物の仕草や手順(人物が冷蔵庫を空け、牛乳パックを手に取り、口をつけてあおって飲むまでの動作のような)のすべてに直接的なコントローラー操作を割り当ててプレイヤーに演技させることで、フィクションの登場人物をゲームプレイにおいて身体化し、編集や映像手法によってではなくコントローラーの操作というゲーム特有のプロセスよってその人物のドラマを体験させることが目指されています。その試みは全てが成功しているとも言えませんが、「ゲームの身体化」アプローチの達成として特筆すべきものだと言えるでしょう。

他方オートマUIの達成としてはゲームシステムとしてのKinectが挙げられるかもしれません。Kinectはほぼ完成形といっていい精度でセンサー入力が可能で、真の意味でプレイヤーの身体をゲームの中に取り込むことができるようになっています。現在の Kinectゲームはこのポテンシャルを生かしきれていないとも言えますが、メディア芸術としてのコンピューターゲームの新局面はこれらの意欲的な試みが切り開いていくものと筆者は考えます。