ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』大ヒット上映中!


映画の日に。2018年の3月1日は『シェイプ・オブ・ウォーター』の他にも『ブラックパンサー』『15時17分パリ行き』が同時に封切られるなkなかすごい日で、どれ観ようかなと思いつつこれに。

映画は心地よい夢のようでまったく文句なしだった。前日夜から当日朝にかけて春の嵐っぽい土砂降り開けだったんだけど、観終わってみたらこの映画の封切りにぴったりだったというか、あの雨の中彼と彼女がどこかに旅立ったのかな…なんて空想をひろげてしまった。

いいシーンたくさんあったというか全部いいシーンみたいな映画だけど、イライザの友人の売れない絵描き(ジャイルズ)が、イライザに手伝わされる逃亡計画のなか、「彼」を初めて目にしてその美しさと存在への共感に心を奪われるところが、なんてことないシーンだけどすごく心に残った。


『Florence』をプレイした

「Florence」をApp Storeで


DDLCをクリアした勢いでゲームどんどんやろうと思って同じく短い『Florence』を買ってプレイ。ドトールでコーヒーを買って席でヘッドフォンをつけてゆったりプレイ始めたら飲み終わるうちに終わった。この値段(¥360)でこのボリュームどうなのという意見もあるみたいだけど、コーヒー1杯分の値段と分量ということなんだと思う。

インタラクティブの形態としては幼児向けのデジタル絵本的なアプリに含まれるものとほぼ同質で、『モニュメント・バレー』のような抽象的だったり虚構度が高い世界であればやることが単純でも気にならないけど、舞台が身近で具体的なものだと野暮で幼稚なものに見えてしまうということなのかな…と思いながらプレイしていたんだけど、いくつか「!」と思ったものは、藤幡さんのいう「インプットとアウトプットの間の詩的な関係性」が感じられるものだった。なかでも新鮮だったのは、2つのインタラクションが「韻」を踏むように配置されているものだったりで、つまりこうしたタイプの(インタラクションの質やメカニクスの複雑さをあえて排除した)ゲームには、「文学的なレベルデザイン」と呼べるような制作が必要なんだろうと思った。


千野帽子『なぜ人は物語を求めるか』を読んだ

筑摩書房 人はなぜ物語を求めるのか / 千野 帽子 著


帰省の行き帰りで読んだやつ。人にとって物語とはなんなのか、というか「人にとって物語とはなんなのか」という問いかたがすでに物語を要求しているよなと書いてみて思ったけど、人や人同士がコミュニケートするためのトークンとしてどれだけ物語が使われ、その物語がいかに無意識下に人を制約しているかを優しい語り口で教えてくれるいい本で、「優しい語り口で世界の見方をドラスティックに変えてくれる」という僕のなかでの「いい新書」の定義に合致してうれしかった。

この本では人は「物語を作る動物」だとされていたけど、いまの僕には『第四の革命』での「情報を食べて意味(セマンティクス)を紡ぐ情報有機体(Inforg)」のパラフレーズに感じられた、次は(『人はなぜ物語を求めるのか』でも何度も引用されている)マリー=ロール ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』を読んでみたい。


『Doki Doki Literature Club!』をプレイした

Doki Doki Literature Club!


実家に帰省した手持ち無沙汰な夜中に、話題の『Doki Doki Literature Club!』をプレイした。こたつにもぐり込んでGPDWinでプレイするヴィジュアルノベルは、むかしZaurusにKanonをインストールしてプレイした記憶につながるものがあった。

仕掛けは素直に驚いたしコンピュータとゲーム(物語)の関係に興味を持つ者としてそこにあるロマンティシズムにたいへん共感したけど、でもやっぱこの作品は「ヴィジュアルノベルというジャンルにおいて日本の諸作品が切り開いた可能性を多くの観客に知らしめるためのデモ」として成功しているというものなんだろうなーと思った。


千葉雅也『別のしかたで ツイッター哲学』を読んだ

別のしかたで :千葉 雅也|河出書房新社


幸福はなぜ哲学の問題になるのか』のなかでこの本からファミコンのゲーム(に代表される、ハードスペックが極めて制限されていたころのゲーム)がもつ世界の緊張感についての話が引用されていて、どういう文脈なのかなと思って読んだ。ツイートをまとめた本なのね。

該当ツイートみつけた。

すぐ読み終わったけど、おもしろかったしツイートをまとめた本の本文の組み方の例としても参考になった。筒井康隆のエッセイとか日記とかを思い出して、そういう意味では文庫で読めると「らしい」感じの内容だったかな。


スマートフォンをHuawei P10にした

HUAWEI P10 スマートフォン | 携帯電話 | HUAWEI Japan [~ https://consumer.huawei.com/jp/phones/p10/]


Xperia Z5 Compactまる2年使ってデバイス的には気に入っていたんだけど、背面ガラスが割れたりバッテリーが半日保たなくなってしまったりしてきたこともあり買い換えた。Huawei P10はやや前のモデルで割高でおそらく1ヶ月以内にP20が発表されるだろうという微妙なタイミングだけど、4GBメモリ搭載でなるべく小さい端末という要件は外したくなかったので選んだ。ここにこだわらなければnova2 liteとか最新型で値段半分なのはわかっていたので悩ましかった。

まだ買ったばっかりで自慢のデュアルライカレンズの写真も含めぜんぜん使ってないけど(Z5Cから移ってきた身としてはカメラの起動が早いのが画質よりうれしい)、Huawei端末ではFAQらしい妙に厳重なバックグラウンド動作アプリの機能制限はひっかかったので(Radikoがすぐ切れるとか)解消した。


ラバーカップで風呂場の排水詰まりを直す

いまの家は風呂の排水と脱衣所の洗濯槽の排水の配管の具合なのか、配水管の通りが悪くなると(あとうちは朝子供と僕が入浴することによる排水と、その残り湯を使って即座に始める洗濯の排水が重なることによるピーク排水量が多いみたいなこともありそう)、あっという間にすすぎ排水が洗濯槽をあふれて脱衣場が床上浸水状態になるので、いわゆるパイプスルー的なパイプの詰まりとり剤を何度も流し込みつつ、それでも毎日しないわけにはいかない洗濯については排水があふれる直前に洗濯機を止めて水位が下がったところで再開という方法で難を凌いできた(段階排水メソッドもちょっと目を離したすきに溢れることが多々あり実際には凌げてない)。

しかし詰まりとり剤では一向に改善せず、いよいよ水のトラブル業者を呼ぶしかないかなと思っていたところ、流れが悪いを通り越して完全に詰まった排水の様子にむしろトイレの詰まりに近いものを感じたのでトイレの詰まりに使うラバーカップ(いわゆるスッポン)を風呂場の排水溝に使ってみたら、一発で詰まりが完全解消した。この数ヶ月の悪戦苦闘はなんだったのか…

考えてみると、一人暮らしを始めた18歳のころ以来トイレの詰まりと風呂場の排水パイプの詰まりには常に悩まされてきた気がする(定期的なメンテナンスを怠っているからだが)。以来25年あまり定石どおりトイレの詰まりにはラバーカップを、風呂場排水の詰まりには詰まりとり剤の流し込みのみで対処してきて、詰まりとり剤ぜんぜん効かねえなと思いつつラバーカップを風呂場で使うことを考えたことがなかったので今回目のウロコも一緒に流れた感じ。まあトイレのラバーカップを使うのは第一に不潔すぎるし心理的抵抗も大きいし、あとイメージとしてトイレの配水管より風呂場の配水管のほうが圧力に対する耐性は低そうなので常用するのはまずい気もする。どうなんだろう。でも効果が明白なので今度詰まったらまた使うだろうな。


パク・チャヌク『お嬢さん』を観た

お嬢さん|絶賛公開中!


劇場公開時に観に行き損ねていた(早稲田松竹で『哭声/コクソン』といっしょにかかってた時に見ようと思ったんだけど満員で入れなかった)のをWOWOWで録画して観た。(エロシーンふくめ)わりと冷静に観てしまった。これは劇場で観たら印象ちがっただろうな。

パク・チャヌクの映画観たことなかったけど(と思ってたらJSAは観たかもしれない)、ひじょうに精密だがどことなく奇妙な映像がずっと続く感じは他の作品もそうなのだろうか。


『佐藤大×さやわか×東浩紀「サイバーパンク放談 \#2 ーー『ブレードランナー2049』は傑作なのか、あともろもろ」』を観た

サイバーパンク放談 #2 – ゲンロンカフェ


前回に引き続き観た。サイバーパンクリバイバル系の作品以外でもスターウォーズエピソード8(そういえば観損ねたままだ)やコインチェック騒動など技術とフィクションと倫理のあり方に関する熱い話題が多くておもしろかった。

『デス・ストランディング』についての話題のなかで、SF(サイバーパンク)のテーマ性が「社会批評性」と「従来の観念を超えるヴィジョン(いわゆる『神感』)」に大別されるとして、近年社会批評性が注目されがちだけど『デス・ストランディング』はあきらかに神感を打ち出してきているので期待したいという話が東さんから出ていて、ゲンロン6を読んだときに高木刑『ガルシア・デ・マローネスによって救済された大地』を読みながら『デス・ストランディング』を思い出してたのとつながって我が意を得たり感があった。


第10回 恵比寿映像祭「インヴィジブル」を見てきた

第10回 恵比寿映像祭(2018)


見てきた。恵比寿映像祭開催のタイミングがいいのかわりと毎年見れてる。今年はマルチスクリーンや迫力ある音響でスペクタクル! という感じの作品がすくなくて、密やかな感じの作品が目立った印象。

これまで何度かの展示を見逃し続けてた青柳菜摘『羽化日記』がようやく見られてよかった。見上げる位置に展示された昆虫観察の機材が整頓されたアクリルケースが、まるで自分が飼育ケースのなかの昆虫から、見上げた学習机の引き出しの中身を透視している視線のように思えて、『黒い土の時間』にも通じる感覚があった。

あとラファエル・ローゼンタールのレンチキュラー・ペインティングシリーズの展示があって、作品もよかったんだけど、ラファエルの作品の起点にあるインターネット感が「うつろいゆく無情の世界」と表現されていて、これはいわゆるポストインターネット的な世界観についての表現としていままで見たなかで一番納得感があったし、たしかにその感覚をラファエルは作品化しているように思った。