東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んだ

『ゲンロン0 観光客の哲学』特設ページ | ゲンロン友の会


まえからゲンロン友の会に入会しているので『ゲンロン0』が届くことは通知メールなどでわかっていたんだけど、3月31日に帰ったらポストに2冊同時に届いていた。1冊は誤配だった。偶然の子供たちの不能の父として一冊は鍵っ子にあげた。

すでに多く語られている通りこの本では、混迷をきわめる21世紀の国民国家と市民の関係と、その現実を前に無効化するリベラリズムの体系とがここまで端的に図式化していいのかというくらいに図式化され、その困難のなかを生きるための方法としての観光客=郵便的マルチチュードの道が説かれる。くわえて独特のこの本そのものへの過剰なまでの自己言及(わけても「僕はこんな世界は嫌だ」「だからこそ僕はこの本を書いている」という切迫的な語り)もあり、読みはじめるとほとんど脳にブーストがかかったような感覚があった。すごい本だった。

この本の議論そのものに言及するような知識は僕にはないけど、この本で語られるナショナリズム(コミュニタリアニズム)とグローバリズム(リバタリアリズム)の二層構造とそのあいだを行き交う観光客という構図は、『ハーフリアル』で分析されていた、ビデオゲームのなかでのフィクションとルールの二層構造とそのあいだを行き交うプレイヤーという構図と正確に一致するように思う(ルールをメタ物語とすれば、ゲームにおけるこの構図も『ゲーム的リアリズムの誕生』ですでに扱われていたと言えるのかもしれないけど)。つまり観光客の哲学はプレイヤーの哲学であり、プレイヤーがフィクションとルールのあいだで成すふるまいから事後的に組織される(ように思える)いわゆる「ゲーム特有のナラティブ」は郵便的マルチチュードだと読み替えることができるのだろう。『ゲンロン0』には「観光客というのは現実の二次創作者なのだ」という刺激的な言葉もあったけど、ゲームプレイによって二次創作化されたフィクション/ルールをナラティブだと言えばいいのかもしれないなと思った。