片渕須直『この世界の片隅に』を観た〔内容に触れます〕

11月12日(土)全国公開 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」公式サイト

ついに公開された。とりあえず初日にユーロスペースで観て、日曜日は奥さんに観に行ってもらって、月曜日は大きなスクリーンで観てみようとおもって池袋HUMAXシネマズで観た。何度観ても新鮮で素晴らしい。

以下はこの世界の片隅の切れっ端のチラ裏を書き付けておくもので観る前に読まないほうがいいです。



原作は当時単行本で追いかけて読んでいたけど、本棚から溢れて本を手放してしまい読み返してなかったので先行上映前に電子書籍版(なぜか下巻エンディングのカラーページのネームがジャギジャギで残念…)を買い直して読み返した。改めて驚いたけどこれは物語と現実の参照と漫画という形態とがひとつも動かせないような精度で組み上げられたとてつもない作品で、前半の戦中の暮らしの部分はともかくとして後半、つまり「右手」についてをどうやって映像化するんだろうか…と思っていた。でも心配は無用でしたね。原作の「複雑さ」「変さ」は映像に昇華されつつ保たれていて、商業作品らしい品もありつつ現実へ干渉するような生々しさと映像表現としての新しさをも備えた、これ以上は望めない映画になっていると思った。

商業作品らしい品と現実への干渉、実験的な映像表現の両立でいうと、鑑賞中は高畑勲作品『火垂るの墓』と『ホーホケキョとなりの山田くん』が同居するような作品ではないかと連想していた(どちらも長らく観ていないのであんまり当たってないかもしれないけど)。片渕監督の文脈だと『マイマイ新子と千年の魔法』より(というか僕はこの映画にはあんまり乗れなかったので)、これは監督作ではなくて演出のみだけど『大砲の街』のことなどを思い出した。どれも観返さないとな。

先行上映後の舞台挨拶で片渕監督が明かしていたんだけど、この映画の声の配役で一番最初にイメージしたのが、「右手」役(じっさいに脚本にも右手役が配されているとのこと)のコトリンゴさんだったのだそう。つまりこの映画の劇中の歌は「右手」が歌っているのだと。予告映像での使われかたに慣れていたので、「悲しくてやりきれない」がオープニング曲になっているのが最初意外に感じたんだけど(エンディングまでさめざめとさせる必要はないというのはもちろんあって正解だとは思う)、これも「右手」がそう歌っているのだと僕は解釈している。

町山智浩さんの解説によると、ザ・フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』は、用意していた『イムジン河』が政治的配慮で発売自粛になった折に作られた歌なのだという(町山さんの解説はのん=能年玲奈の芸能界での状況に引きつけた補助線でもある)。考証を異常なまでに徹底したこの映画において1968年作のこの歌の採用のみは考証を外しているわけだけど、すずさんの右手がこの歌をうたうとき、すずさんやこの物語にだけではなく、時代を超え表現を禁じられる悲しみそのものに捧げられるのだと思う。