行為の/物語のシミュレーション

ナラティブを分解する——ビデオゲームの物語論(講演資料)
Gamasutraでの「narrative」の用法 – 9bit

ゲーム研究をされている松永伸司さんが立命館大学での「分析哲学と芸術」研究会にて発表された「ナラティブを分解する——ビデオゲームの物語論」という講演のレジュメが公開されていて、これがとてもおもしろかった。

前半は最近コンピュータゲームを語る際に海外で重視される、という文脈で輸入語的に紹介されややバズワードの状況を呈している「ナラティブ」という言葉が言い当てようとしているゲーム内の要素を分解し、それを既存の物語論の枠組みに接続する試みで、これもおもしろいのだけど、この前半の議論を引き継いで、ゲームならではの体験である「プレイヤーについての物語」を感じさせる要素の説明として提案される「行為のシミュレーション(の写実性)と「物語のシミュレーション(の写実性)」という概念がとくにおもしろくて、この考え方でかねてから考えていたコンピューターゲームの気になる要素がうまく説明できそうだなと思った。

行為のシミュレーションは、ゲームメカニクス(ゲームに対してプレイヤーが可能な側面)とゲーム内で展開するフィクションとの関係において、メカニクス上の行為(ゲームプレイ)が虚構世界上の誰かの行為として「見立てる」ことができることだと説明される。この「見立て」が写実的である、つまりプレイヤーにとってゲームプレイ行為とゲーム内での行為とが一致して感じられることが、コンピュータゲームにおいてプレイヤーの体験の深さを示すことになる。書いてみると当然のことのようにも思えるけど、両者の関係がプレイヤー自身による「見立て」であり、したがってその関係が 事後的 に成立する場合もあると示されているところがポイントだ。行為のシミュレーションは、(オープンワールドゲームのように)プレイヤーがゲームの中で現実と同じようにふるまえることだけを指すわけではない。

たとえばスポーツゲームのいわゆる実況システムというのが以前から気になっていたんだけど、これを行為のシミュレーションとして説明するとこうなる。実況スポーツゲームにおいて、プレイヤーの操作はゲーム内の選手の行動としてゲームに反映されるだけでなく、その行動やそれによる局面の変化が実況されることで、その行為がゲーム内のスポーツ試合(フィクション)における選手の行為としてより写実的に「見立て」られるようになる。あるいはゲーム内の投手の投球に合わせてボタンを押さなかったことも、「◯ ◯(選手名)、ここは見送りました」のようにそれらしいぷ野球選手のふるまいとして実況されることで事後的に行為のシミュレーションとして成立し、プレイヤーの体験を強化する。ゲームメカニクスのこうしたありかたを行為のシミュレーション(の写実性)という用語が説明できるんじゃないだろうか。

そしてもうひとつの「物語のシミュレーション」は、プレイヤーの行為が、ゲーム内の誰かの行為にとどまらず、ゲーム内の虚構世界の出来事のなりゆきに見立てられることだと説明される。これもまた単にプレイヤーがゲーム世界の物語の展開を決められること(物語内容のインタラクティブ性)を指しているわけではない。松永さんのレジュメでもプレイヤーの行為が事後的に物語のシミュレーションとして見立てられる例(『ドラクエⅤ』の結婚イベント)が挙げられているけど、こと物語に関しては自分が選んだことよりも、「自分が選ばなかったこと」や「自分ができなかったこと」によってなりゆきが変わっていくことのほうがリアルに感じられるんじゃないか、ということが僕は前から気になっている。

たとえば「Papers, Please」はそういうゲームだった。「Papers, Please」でプレイヤーがすることといえばどんどんルールの変わる間違い探しのような入国審査であり(これ自体もよくできているんだけど)、一般的には物語を重視したゲームとは言われないと思う。でも「物語のシミュレーション」の観点で、プレイヤーの行為と虚構世界のなりゆきとの一致による体験の深さにおいては、これほどのゲームはなかなかないのではないかな。ものすごくリアルな「後悔」が味わえた。


松永さんの「行為のシミュレーション」については別の論文で詳しく論じられているそうなので読んでみたい。