ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』を読んだ


 オンライン動画について共に語り、笑い、掘り下げるにつれ、マイクはふと動きを止め、真剣な表情で私の方を向いた。「お願いがあるんだけど」と、彼は言った。「ママに話してもらえるかな? 僕はインターネットで何も悪いことはしていないって」。私がすぐには答えなかったため、彼はさらに続けた。「つまり、ママはオンラインのものは何でも悪いと考えてる。あなたは話がわかるみたいだし、それに大人のひとだから、彼女に話してくれる?」
 私は微笑み、そうすると約束した。
 この本がまさにそれである。ティーン(13歳から19歳の若者)のネット上の営みを、彼らを心配する人々、すなわち親、教師、政治家、報道関係者、または他のティーンたちに説明する試みである。

ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』 - はじめに

素晴らしい本だった。

膨大な当事者インタビューを通して、(とくにアメリカの)ティーンエージャーのソーシャルメディアの受容のかたちについて、大人たちの先入観からの誤解や恐れからの排除が見えなくしているものをていねいにひも解き、そこでティーンが本当はなにをしたくて、なにをしており、それに対して保護者である大人たちが本来はなにができるかを解説する本。

なのだが、それよりなによりこの本は、大人になると誰もがその感覚を忘れてしまうため取るにたらないことに見える、しかし彼(女)らにとってはほんとうに切実でそれゆえかならず隠されてしまう、「ティーンにとっての『自由』」というものがとても感動的に描き出されている。そこが稀有な本だと思う。

この本で強調されるのは、今も昔もティーンが求めるのは彼(女)らがティーンであること(保護され、監督され、主体的な行動が許されない)からつかの間離れられる「公的な場所」であり、かつて公園やモールがそうだったティーンにとっての「公的な場所」が、現在ではソーシャルメディアにしかないのだということで、それは大人たちが多くの選択肢のひとつとしてインターネットやソーシャルメディアを使うのとはまったく意味が異なる。べつにインターネットやソーシャルメディアが最適な場所だと思っているわけではないし、そのすべてを理解できているわけでもなく、自分たちがそうすることで親をはじめとする大人たちを心配させるのは本意ではないと考えているのだが、インターネットやソーシャルメディアがどういう場所であれ、自由にうろつき、いちゃつき、ふざけあい、自分たちのための空間をつくって社会と自分の関係を確かめられる場所がそこにあるのだとこの本の取材で多くのティーンは証言する。

これはかつてティーンだった自分を振り返ればだれでもでも思い当たる感覚だろう。また、ティーンだった自分が依拠していた場所にくらべ、インターネットやソーシャルメディアという場所がたいへんに「複雑」な環境であることも理解できるはずだ。だから、大人たちはティーンのインターネットやソーシャルメディアでの活動を認め、監視や排除を強めるのとは別のかたちで、彼らのソーシャルメディアを通じた健やかな「成長」を見守り促す必要があるのだとこの本は言う。

ティーンのネットリテラシーについて論じた章で、著者はWikipediaについて意外なほど紙面を割いている。ネットリテラシーの文脈でWikipediaについて大人(教師)がティーンに語ることといえばたいていその情報の不正確さや、鵜呑みにすることの安易さや紙の文献に当たることの大切さ止まりなのだが、それはティーンが手にしつつある新しい世界、「ネットワーク化されたパブリック」を理解する絶好の機会を手放しているのだと著者は言う。Wikipediaの各項目はさまざまな立場の人々がそれぞれの観点からその情報を高めるために参加し議論し、その経緯を履歴として記録しながら常に変化していく「公的な場所」として設計されている。ティーンの公共への切望をWikipediaのような可能性へと導いていくのが、あたらしい世界の「良識」になるんだろう。