別役実「犯罪症候群」

id:brazilさんが別役実「日々の暮らし方」を紹介されていて、いっかいの別役ファンとして僕もマイフェイバリットを紹介したくなったので、勝手にバトンを受け取ってみようと思った(バトン?)。

文庫版も絶版してもう何年も書店で見かけないこの本だけど、このなかで提示される論理と世界観は、今読んでもまったく古びておらず、いまだに恐るべきものだ。この本を大学生のときに図書館で借りて読んだときの衝撃を僕はいまだにまざまざと覚えているし、id:brazilさんじゃないけど、それは僕が文章の上で論理を組み立てるときの、背骨になっていると感じる。

タイトルの通り、犯罪について評した本だ。でもそれは、ふだんわれわれがニュースで知るたぐいの「情報としての犯罪」の話ではない。力としての人間関係や、力としての人間の行動論理が、たがいを圧迫しあい軋んだはてに、雪崩れるようにして起こる「ドラマとしての犯罪」が、この本では扱われている。そこには論理がある。アリバイがあるとか犯行が計画的だとかいうことではない。犯罪とはそんな属人的なものではない、とこの本は言う。人間の関係やその行動には、個人の意志とは無関係なロジックが埋め込まれており、犯罪なるものは、そのロジックを利用するかたちで、われわれの前にその姿をあらわすのだ。

だからこの本は犯罪に興味がなくて読めるはずだし、扱われている事件が遠い過去の記述となった今もって、その内容は古びていない(というか、刊行の時点で別役実は、取り上げる事件を「神話」として扱っているように思える)。しかも別役実が書くわけだから、酩酊感をともなう独特のユーモアが全編に満ちている(他の本にくらべると若干含有量は少なめだけど)。最高にかっこいい本だ。ぜひ図書館で借りて読んでほしい。

たとえば第2章「犯罪 − そのデザイン」の「詐欺師」の項。前も引用したけど、「アーキテクチャによる規制」とかweb2.0の世界観というのは、ようするにこういうことなんじゃないかと僕はずーっと思っている。絶版本だし安心して長々と引用したい。

 一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。帽子売りは先ず木に登って猿を捕まえ、帽子を取り戻そうと考える。しかしもちろん、そんなことはしない。木登りの技術で猿に対抗できるとは思えないからだ。次に帽子売りは、石を投げることで猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようと考える。もちろんこれも実行はしない。石は当たらないだろうし、万が一当たっても、帽子を捨てるかどうかわからない。
 そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。
 つまりこのようにして、帽子屋はその帽子を無事取り戻すことができた。この場合、帽子はもともと帽子屋の所有するものであるから、彼の行為はいかなる法にも抵触するものではないが、もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、そのとき彼の行為は《詐欺》ということにある。言ってみればこの猿は、「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、《詐欺》が成立するためのもっとも特徴的な条件は、まさしくここにあるからである。
 (…)木に登って猿をつかまえ、帽子を奪い取ろうとするのは窃盗の方法である。石を投げて猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようというのは強盗の方法である。そして我々は、それからこれへの進歩を促したものが、「より労を少なく」「より横着に」という法則であることに、直ちに気づくことができる。(…)
 従って《詐欺》の方法は、強盗から更に、脅迫する労力を惜しんで発明されたやり方であると言えるだろう。言ってみれば、もっとも横着な手段であり、他人の財物をかすめとるための、この過程におけるもっとも進歩した、言ってみれば、ほぼ完全な手段であると言ってもいいかもしれない。被害者が「自分では全くその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」、加害者にその財物を渡さざるを得ない方法というのは、古来よりすべての犯罪者が夢見てきたものであった。つまりそれが、ここに完成をしたのである。

同じく第2章の「愉快犯」に関する考察も震えるほど素晴らしい。

 私の観察によれば、《愉快犯》というのは、怨恨もしくは報復の対象を、特定できない人間のことではなく、むしろ、特定する必要を認めない人間のことなのである。つまり、彼の怨恨もしくは報復の衝動は、その対象に置き換えて相殺できるという種類のものではないのだ。(…)
 従って彼等は、刃物を持って表に飛出してゆき、特定の、もしくは不特定の人々をそれで刺し、そうすることによって内在する怨恨もしくは報復の衝動を解消させようなどとは考えない。彼等はそれを解消させることにあらかじめ絶望している。ただ彼等は、それがそこにあることを、時々確かめてみたいと考えている。それがそこにあることを確かめることのみが、彼等にとっての、唯一のなぐさめなのである。(…)
 どんな人間が《愉快犯》になるか、という点について社会心理学者が、ひとつの類型をこしらえあげている。それによると「内気で大人しい」「無口である」「友だちが余りいない」「礼儀正しい」「ひとりでこつこつやるのが好き」「臆病である」「平凡で目立たない」「成績が中の上」など、特殊なものをの除くと、ほとんど取るに足らない。良く考えてみると、これらは全て従来の概念に従えば、犯罪者にならないものの特質としか思えない。
 つまり、《愉快犯》というのは、特異な個性が生み出す特異な犯罪なのではなく、最も平凡な個性が、得体の知れない事情に促されて起す奇妙な犯罪なのである。

あるいは第4章「犯罪 ー そのたましい」。この章では「裏切り」というものが、共同体のドラマにおけるいかなる画期的な“発明”であるかが、各時代の事件とともに評されているのだけど、ここで別役実は、イスカリオテのユダや北一輝にならび、昭和四十三年に起きた取るに足らない一家心中未遂の犯人川瀬申重を取り上げる。この川瀬に対する別役実の思い入れは、ほんとうにすさまじい。きわめて平凡な4人家族の会社員が、とある目論見外れで手に入れる予定だった家の資金調達に失敗しつつあった過程を、別役実はこう書く。

 もちろん、こうした男はよく居る。最初に何かでつまずくと、それですべて気力を失ってしまって、何も彼もいやになるのである。ただし、ここが重要なところだと考えるのだが、川瀬はそこで破滅はしなかった。ヤケにもならなかったし、ひどく落胆することもなかった。(…)一人で黙々と、耐えたのである。何故それに耐えられたのであろうか。私はここに、川瀬にとってのたましいの秘密があると考えるのである。
 最初に川瀬が、姉に借金を断られた時、すぐにすべてをあきらめたとは考えられない。兄のところへ、もしくは銀行へ行って、姉に断られた分も頼みこもうと考えたに違いない。しかし、それは重苦しい仕事だった。そこで一日延ばしに、延ばしていったのだ。「明日は行こう、明日は行こう」と考えながら一日一日と延ばしてゆくその日々の、ギリギリする緊張感は、大変なものだったろうと思う。そうした連続の中で、川瀬はたましい(引用者:強調部は本文では傍点)の奇妙なすれ違いを体験する。「兄のところへ交渉に出掛けていく強さ」を自らに課すのでなく、「行かなければならないと考えながらおくる不安な日々に耐える強さ」を自らに課すことを始めていたのだ。たましいの奇妙な転換がここで行われたのである。人はこのようにして、「わかりません」一派の人間に生まれかわる。
 (…)恐らく川瀬は彼のたましいに、手付の三十万が失われ、家族の、会社の、その他すべてからの信用が失われてゆく事実を、刻々と刻みつけながら、それまでに味わったことのない「楽しみ」を、体験したであろうと、私は信ずる。

裏切りとそのための倒錯とを、これほど耽美に、おそれることなく書いた文章というものを、僕はほかに知らない。