think-routine #25 特権の剥奪について −いまさらの「ファウスト」と「新現実」ー

■ごたぶんに洩れず僕も小説現代10月増刊号「ファウスト」を購入して、東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」を読んでみていたりするわけです。個人的には、東さんのゲームに関する言及ではじめて納得できる内容の文章だったような。「YU-NO」とノベル系ゲームのシステムの対比とかはもしかしたらおもしろいのかもしれない。あと「Ever17」もおもしろそうだからやってみよう。

■さて、しかしこの東さんの「メタリアル〜」でのゲームに関する論旨の多くは、「新現実」Vol.2の佐藤心さんの論文を整理したものらしく、その論文にいまさらながら興味を持ったのでした。ということで、Vol.1は買ったけどVol.2は買ってなかった(わかりやすいな)「新現実」を買ってきて佐藤さんのギャルゲー論文を読んでみました。そして反論をちょっと。

■佐藤心「オートマティズムが機能する2」では、前半に多くのギャルゲーが持つ構造とその中でのプレイヤーの役割を分析したうえで、後半にそのような構造を持つギャルゲーにおいて特徴的な作品(「雫」「KANON」「AIR」)とそれら作品に通底するテーマを批評するという構成になっています。プレイヤーにほとんどいわゆる「アクション」を行わせることなくただひたすら大量のテキストを読み進めさせることで成立するという、ほぼ物語メディアと化した現在のギャルゲーが、それでもなお「ゲーム」であり、「ゲーム」であるからこその達成があるのだとする前半部に僕はひじょうに興味があるのですが、しかしこのギャルゲーの構造分析、佐藤さん言うところの「プレイヤーというゲームに特有の存在を、ギャルゲーの構造の中に定位すること」は、僕にはうまくいっているように思えません。しかもそれは、その分析においてコンピュータゲーム全体の歴史からの視点が欠けているからのように、僕には思えます。ギャルゲーがゲームとして特殊であり、それでもなお「ゲーム」であるということには、コンピュータゲームの歴史、文脈というものが常に関係してくるはずでしょう。

■佐藤さんは、ギャルゲーの構成について、「主人公(プレイヤー)を含めた登場人物(キャラクターの層)」「主人公と登場人物とのコミュニケーションと、その特に時間的/空間的な展開(コミュニケーションの層)」「(ギャルゲーの場合多くキャラクターに固有の)物語のクライマックスとしてのトラウマの表出とその回復(トラウマの層)」とを区別し、それがプロットとしての流れを持っていることを指摘してこう言います。

またこの三層を、シナリオ上における一連の流れとして捕らえてみることで、私たちはギャルゲーの構造の特徴をかなり正確に導き出せるのではないかと思う。(…略…)私たちの考えでは、これは探偵小説の構造ときわめてよく似ているからだ。

警察権力に支えられないで秩序を回復させる自由な存在とは誰か。探偵という記号は、私たちにはこの(ママ)不可能で、空虚な、ゼロ記号のようなものに思える。そしてプレイヤーが、完全な虚構世界に視点、というわずかな接続点を持った外部であるとしたら、探偵とは、現実空間を模したリアリズム小説の世界に舞い降りた外部である。

■つまり佐藤さんは、ギャルゲーが構造として探偵小説に接近していることを指摘して、「探偵」という特権者が解かれるべき謎を読者の目の前で解いてみせる探偵小説と同様に、ギャルゲーは「プレイヤー」という特権者を含めたドラマを提供することで小説とは異なるエンターテイメントである「ゲーム」として成立しているのだ、と主張しているのだと思うのですが、しかしこれは完全に逆転した議論ではないですか。ギャルゲーが探偵小説に接近しているのではなく、探偵小説やミステリーが持っていた構造のゲーム的側面を抽出して、先人がアドヴェンチャーゲームというジャンルを成立させ、その子孫としてビジュアルノベルをはじめとしたギャルゲーが存在している、というコンピュータゲームの歴史があったのであり、ギャルゲーのシナリオはそのアドヴェンチャーゲームの構造に規定されているに過ぎないのです。そしてその限りでは変死体が萌えキャラに、殺人犯が女の子のトラウマに変奏されているに過ぎず、そこにギャルゲーの特殊性などはないだろう、と僕は考えます。いくら探偵小説とギャルゲーの本だからって(違うか)、その間にあるコンピュータゲームの歴史をまるごと無視するのは、そんなバカな、と思います。

■そもそも、ギャルゲーは探偵小説やミステリの遠い親戚だったのであり、そこにあるプレイヤーの特権性や透明性というものも、ギャルゲーの先祖だといえるアドヴェンチャーゲームや、それ以前にコンピュータゲーム全体が持つ特徴なのであり、それらを根拠としてギャルゲーの特殊性や、物語メディアの中での「ゲーム」性を論じることは不可能だろうと、僕は考えます(物語メディアに限定してのギャルゲーの特殊性、という主張は可能かもしれませんが、少なくとも佐藤さんの議論ではそのような主張はとられていないと考えます)。そうではなく、ギャルゲーのコンピュータゲームとしての特殊性や、(先祖としての)探偵小説から逸脱した構造を、「雫」や「KANON」や「AIR」に見つけなければならないはずです。そしてもしかしたら、そうしたことは可能ではないかと、僕は考えるのです。

■ずいぶん昔で記憶がおぼろげではありますが、僕が「雫」をプレイしたとき、「なんでこんなシナリオにしたんだろう」という感想を持ったことを覚えています。前述のとおり「雫」はシナリオの要所で主人公の行動をプレイヤーに選択肢から決断させつつ進行するという、いわばアドヴェンチャーゲーム直系のゲームであり、佐藤さんの論にも詳しいようにそのシナリオは超越的な主人公がストーリーを駆動する探偵小説のプロットを持っているといえます。しかし、にもかかわらず、僕が違和感を覚えたのは、「雫」がそのストーリーの重要なモチーフとして、それを受けた人間は行動を支配される「毒電波」というものを設定して、「その毒電波によって主人公すらも行動を支配されてしまう」というストーリーになっていたことでした。伝奇ミステリーとしてはよくあるモチーフかもしれませんが、「主人公(プレイヤーキャラ)を支配しうる設定の存在」というのは、コンピュータゲームのモチーフとしては十分変わっていると僕は思います。つまり「雫」は特権的なプレイヤーの存在するコンピュータゲームにあって、その特権性を剥奪するモチーフを持ちこもうとしていた、と考えることができるのではないかと、僕は考えます。そして、そう考えると、たとえば「AIR」の第3章「AIR編」が理解できるのではないかと思うんですね。

■プレイヤーから特権を剥奪すること。ゲームの「世界」を自立させること。これが、ギャルゲーに限らず現在の先鋭的なコンピュータゲームが暗に目指している目標ではないかと、僕は考えるわけです。

■あ、あと評論読んでて唐突に思いついたんですが、「Air」の第2章「SUMMER編」というのは、物語的にはともかく構造的には、第1章「DREAM編」を忘却させるために存在する、のではないかと…