think-routine #19 チャンス・オペレーション

  • featuring 「ルーマニア203」

初出:2000-12-19 – http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_19.html


■たとえば、「ドミノ倒しのゲーム」というものを想像してみていただきたい。プレイヤーはその操作で、目の前に立てられた一枚のドミノを倒すことができる。もちろんそのドミノは次に続くドミノを倒していくのであり、さらにそのドミノはその次のドミノを倒していくのであり、n番目のドミノはn+1番目のドミノを倒していくのであり、倒していくのであり、倒していくのであり、つまりそのようにしてドミノ倒しのプレイが始まる。以後ゲームオーバーまでこのゲームは続くわけだけど、想像に難くないように、プレイヤーは以後のプレイにおいてまったくゲームを操作することができない。でも、「ドミノ倒しをしたい」と考えるプレイヤーは、途中で操作を行いたいとは考えないはずなのだ。先頭のドミノを倒すことのみが、われわれがドミノ倒しをプレイする唯一の方法なのであり、その唯一の方法を通じて、プレイヤーはドミノがひとりでに倒れていく様子を、自分のプレイとして感じることができる。

■…というのはいちおう単なる冗談なんだけれど、でもじつはこれはすでに、まったく冗談になっていないだろうと僕は思うのだった。「ドミノ倒しのゲーム」みたいなものが実際におもしろくプレイできたりするものかどうかはさておかせてもらうとしても、現在われわれがコンピュータゲームに発想する「ゲーム」というものは、まちがいなくこういうものになりつつあるのだろうと僕は考えている。こういうもの、とは僕なりに言うと、「プレイヤーがほとんどなにもしないまま、『プレイ』が進行していく」ようなゲーム、のことだ。

■ゲームの本質とはプレイヤーが状況に対して意志決定を行えることだ、という言いかたがあって、じっさいコンピュータゲームについてもちょっと前まではそのような原則に従っていた、と僕は思う。プレイヤーはゲームに決定した意思を伝えるべく操作を行い、またゲームはそのプレイヤーの意志を間違いなく了解してしかるべきふるまいを返す(あるいは何かのかたちでその意思の判定を行う)。ゲームとはプレイヤーの意志に基づく行動、すなわち「アクション」のみにおいて進行するものであり、プレイヤーは自分の意思としての「アクション」がゲームに伝わること(もちろん伝わったからといってそれがうまくいくとは限らないんだけど、その場合もプレイヤーの意志の問題であることは変わらない)を「プレイ」として楽しんでいたはずだ。

■でも今はそうでもないんじゃないかな、と僕は思うのだった。今ゲームをおもしろくしようとする考えのほとんどは、プレイヤーの意志というものがゲームに「正確に伝わること」ではなくて、「正確には伝わらないこと」(あるいはそのように錯覚させること)を楽しませようとしているように思える。「アクション」がそのまま「プレイ」に反映されるのではなく、なんらかのかたちでクッションさせるような、プレイヤーの意思とは違う、なにか別のものによって「プレイ」が進行するような、確実にプレイヤーが関わっているはずなのに、ほとんど何もしていないように思えるような。今われわれがおもしろがっているゲームの多くは、そういうものになりつつあるんじゃないだろうか。

■というわけでたいへん能書きが長くなったけどそろそろ「ROOMMANIA #203」の話をしよう。このゲームが「どっちかっていうとダメな大学生ネジタイヘイ君の住むワンルームマンションをのぞいて、彼にイタズラをする」という救いがたくイロモノ的な印象とはうらはらに、そういう下世話な興味にひかれた野次馬すら引っ張り込む巧妙なシナリオ、ビミョーなドラマ、絶妙の演出を楽しませるそれはもう稀有なゲームであることは、発売後時間の経ちすぎた今となっては誰だって知っていることだと思う(僕はといえばいつもながらもイマサラにプレイを始めて、すぐに気に入って、一生懸命クリアして、すごく感銘を受けたところなのだ)。じっさいこのゲームを絶賛する評は、そのシナリオの妙について多くの言葉を尽くしていて、それらに僕もまったく同感なんだけど、さらに僕はここでいまさらなりに「ROOMMANIA #203の見事なシナリオは、どうして可能だったのか?」なんて問を立てたい。前半の能書きをこの問の説明として接続してみようと思う。

■「ROOMMANIA #203」のシナリオの巧みさは、そこで起きる出来事や進行する展開を「誰か(何か)のせい」にしてしまわないところにある。登場人物は誰ひとりとして自分が決定的なことを行っているとは考えていないのに、事態はどんどん「取り返しがつかなく」なっていく。そういう“日常の正体”がそこにはあるのだ。まあドラマというものはそうでなければならない、ともいえるんだろうけれど、一方でこれはゲームのシナリオとしてはかなり奇妙だろうとも思う。プレイヤーの主観的な意思がその「プレイ」の展開を決定するはずの「ゲーム」というものには、本来こういうシナリオはあり得ないのだ。起きることはすべて間違いなく「プレイヤーのせい」、というシナリオしか成立しない。起きることが「プレイヤーのせい」ではないような、プレイヤーには「どうしようもない」展開というのは、そこではルール違反であるはずだ。

■つまり、ROOMMANIA #203の見事なシナリオというのは、コンピュータゲームに想定される「プレイヤーのゲームとの関わりかた」が、いままでのように「プレイヤーの意思においてプレイを主導する」ようなものから、それとは違うべつのかたちへと変わったことで、はじめて可能になったものだと僕は思うのだ。ご存じのとおりこのゲームでプレイヤーができることといったら、ネジ君の気持ちにすこしだけちょっかいを出したりとかネジ君がいないすきにさりげなく物の配置を変えたりだとかすることで、ネジ君になにかを「気づいてもらう」ことだけだ。命令するのではなく、教えてやるのですらない。しかもそこでネジ君が何かに気づいたとしても、それはプレイヤーが気づかせたのではなくあくまでネジ「が」気づいたこととして進行する。そういうゲームだ。「ROOMMANIA #203」というゲームでは、プレイヤーの意志、「アクション」が、ゲームの「プレイ」からきわめて巧妙に隠蔽される。ほとんど、その「プレイ」でわれわれが「何もしていない」かのように。でもプレイヤーはそこで、「何もしていない」にもかかわらず、その後進行し展開する「プレイ」に、確かに自分が関わっているという奇妙な感覚を憶えるんじゃないだろうか。プレイヤーは「ROOMMANIA #203」の世界の部外者であることによって、逆説的にその世界に関わることができる。それのみが、「ROOMMANIA #203」をプレイする唯一の方法なのだ。

■今のゲームが試みるこのての発想というのは、ゲームが「偶然」だとか「必然」だとかいった「どうにもならない」事象を、どうにか表現しようとするたくらみなんじゃないかと、僕は考えている。プレイヤーはもうすでに「プレイヤーに可能なこと」をプレイするのにはすっかり飽きてしまっていて、「プレイヤーに不可能なこと」こそをプレイしたいと思っている。その矛盾した欲望が、このさきコンピュータゲームをさらによくわからないものにしていくんじゃないだろうか。