think-routine #14 ビデオゲーム : 1999

初出:1999-12-4 – http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_14.html


適当なタイトルが思い浮かばなかったのだけどこれで見切り発車。2年目の年忘れ企画であるよ。

ビデオゲーム : 1999 #1 レイクライシス(TAITO / Arcade)

■もう間違いないだろうと思うので言ってしまうわけだけど、僕が今年一番楽しくプレイしたゲームは「レイクライシス」だった。というか、未だにプレイし続けている。以前たわむれに「ここ3年くらいのシューティングゲームで一番好きかもしれない」とか書いたけど、その気分は基本的に変わってないのだった。

■前2作からゲーム展開にかかわるシステムを大きく変えた本作である。「レイクライシス」で採用された、プレイヤーの現在のプレイおよび過去のプレイによって毎回のゲーム展開を変化させていこうという「侵食率システム」や「GPAシステム」というのは、ゲームの発想としてとてもまっとうだと思うし、しかもそれを看板シリーズにいきなり載っけてしまうところがすごいと思うのだけど、一方で過去にもいくつかのゲームで試みられている、その意味ではさほど革新的でもないシステムだと、僕は思う。そして、その過去のいくつかのゲームから、システムがもたらす多様な展開が「どの程度のもの」かを、僕は知っている。実際、「レイクライシス」の展開の変化というのも、「その程度のもの」でしかない。つまり「レイクライシス」を「そこ」でほめてはいけないのだろう。

■「レイクライシス」というゲームに奥行きを与えているのはそのようなシステムそのものではなく、システムと、ある意味ではそれ以上に機能的なかたちでつくられた音楽ではないか、と思うのだった。「レイクライシス」においては、ゲームミュージックがシステムと対置されるもっとも重要な位置にある。システムが(ある意味)節操なく展開を変えていくのに対して、音楽はゲームを通じて同じモチーフの旋律を絶えることなく繰り返して(このゲームではゲームオーバーまでBGMが途切れずずっとずっと続くのだ)いきながら、気付くとまったく別の曲になっている。加えて、「レイクライシス」のBGMはそれぞれ印象が異なるいくつかのものがあり、最初の時点で決定されるそのBGMによって、ゲームの全体的な印象が大きく変化する。その変化は、システムのもたらす多様な展開の比ではない、と僕は思う。

■言ってみれば、システムはゲームの破綻(単調さやゲームバランスの崩壊)を避けながら細かな変化を繰り返し、一方の音楽はミクロ的には何も変化しないようでいて実際にはその曲想を大きく変化させ、ゲームを盛り上げるのである。このスパンの違う変化の相乗によってもたらされる「多様な展開」こそを、僕は「レイクライシス」だと思い、素晴らしいと思うのだった。ゲームを意識しているといつのまにか音楽が変化している。音楽を意識していると唐突な展開やパターンの変化に驚くことになる。何度プレイしても「レイクライシス」という「ゲーム」そのものを掴んだ気分になれない。そんな感じだ。そして何度プレイしても掴みきれない「レイクライシス」を未だにプレイしている僕は、唐突にも、「ゲームに『ストーリー』があるとしたら、こういうものだろうか」なんてことを思うのだった。

■たとえば、「ゼビウス」というゲームの「ストーリー」というのが、常に誤解されてきたと思うのだ。誰もが知っている通り、「ゼビウス」はその制作時に、オリジナルの世界設定やバックグラウンドストーリーが書き下ろされ、そういういわゆる「世界観」に基づいて製作されたゲームのさきがけである、と言われる(それはそうかもしれない)。しかしここからが誤解されていると思うのだが、「ゼビウス」というゲームは、そのような「世界観」が設定されたから「ストーリー」が感じられるのではなく、むしろそのような「世界観」とは無関係に「ストーリー」が感じられるからすごいのである。「世界観」は一通りそろってるくせに、それがゲームで感じられないようなものがたくさんあるということは、やはり誰だって知っているはずだ。そうではなく、「ゼビウス」の世界というのは誰が何と言おうと、ゲームで完結している。プレイすれば常にそれが感じられる。設定ではなくそれこそが「ゼビウス」の「ストーリー」だと考えるべきだろう。

■ゲームの「ストーリー」はプレイヤーによって「確認」されるのではなく、「発見」されなければならない、なんて言ってみたくもなるんだけど、「レイクライシス」をプレイしていると僕はそういう意味での「ストーリー」に思いいたるのだった(だから、その限りにおいて僕は「レイクライシス」の「公式設定」には興味がない)。もうはっきり言ってしまえば「ゼビウス」の次に好きなんだな。

(PSなりPS2なりに移植されるとして、ステージ間にロードウェイトなんか入れたら僕タイトーさんブッ殺しちゃうかもよ!)

ビデオゲーム : 1999 #2 クレイジータクシー(SEGA / Arcade)

■例によってオーゲサに言うと、「仮想世界とそこでのゲームのありかた」のようなものに、一種の成熟を感じる。オーゲサに言うとだけど。仮想世界というものが、ゲームにどうあるべきか、そしてゲームというものが、仮想世界にどうあるべきか、ということへの認識の違いが、「クレイジータクシー」と、たとえば「ハーレーダビットソン」の違いなのだと、僕は考える。

■現実世界がそうであるように、仮想世界というのは、要するには全てのものや法則がプレイヤー(という呼びかたは便宜的なものだけれど)とは「無関係に」あったり起きたりする世界でなければならない。そして一方の「ゲーム」というものは(少なくとも従来のゲームは)、「全てのものや法則がプレイヤーのためにあったり起きたりする世界」のことだと、僕は理解している。つまり、仮想世界と「ゲーム」は、プレイヤーにとってのその世界のありかたが「まったく逆」なのではないか。この「まったく逆」の世界を認識したうえで、ふたつの世界を何らかのかたちで整合させておかないと、それはなにをどうしたらいいか戸惑うばかりの「ゲーム」や、まったく不自由なだけの「仮想世界」になってしまうのではないか、と思うのだった。

■さて、そこで「クレイジータクシー」が何をしているとかというと、「プレイヤーから見て、世界は『ゲーム』だが、世界から見て、プレイヤーは特別ではない」というようなデザインが徹底されているのだと思う。このゲームが「職ゲー」と名付けられたシリーズのひとつだったりするのは、なかなかに興味深いことのような気もするんだけど(ちなみに他の「職ゲー」は、「クレイジータクシー」と比べてしまうと、単純な意味で「ゲーム」だと思う。だからダメだという意味ではないのだけど)、ともかく、「クレイジータクシー」と、たとえば「電車でGO!」との違いが、そのへんにあるのではないか。

■「電車でGO!」でプレイヤーは「運転士になる」ことで「ゲーム」を行う。「運転士になる」ことでしか「ゲーム」を行えない、といってもいい。シミュレータという「ゲーム」は、仮想世界の法則に、あるやりかたで従うことであり、従わない行為はその「ゲーム」において単に無効だ。これがひとつの「仮想世界とそこでのゲームのありかた」だとすると、「クレイジータクシー」はそうではない。「クレイジータクシー」においてプレイヤーはタクシーの「運転手になる」のではなく、単に「ゲームをする」。そしてプレイヤーが「ゲーム」として行えるアクションはすべて「仮想世界でタクシーの運転手が行なうべきこと」である。世界を「ゲーム」として好きなように遊ぶことそのものが「仮想世界の法則に、あるやりかたで従うこと」になる、というのが「クレイジータクシー」における「仮想世界とそこでのゲームのありかた」だと思うのだ。僕の感じかただと、「電車でGO!」のようなありかたより、「クレイジータクシー」のようなありかたのほうが、より自由であるし、そしてより「ゲーム」だと感じる。

■とにかく僕は、「クレイジータクシー」みたいなデザインを打ち出して、そのための仮想世界をほぼ完璧に作り上げた開発者に脱帽しておきたいと思う。このようなゲームデザインそして仮想世界のデザインが、仮想世界と「ゲーム」を、シミュレータから解放していくのだと思うのだ。