think-routine #7 それでもあえて言うとすれば「ゲーム性」とは

  • featuring 「パラッパラッパー」

初出:1999-02-28 – http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_07.html


■ずいぶん前になるけど、他ならぬ「パラッパラッパー」制作メインスタッフの一人である伊藤ガビンがインタビューで「「パラッパラッパー」はプレイヤーをだましている」のだ、という意味のことを言っていた。言い方としては「インタラクティヴィティを錯覚させている」とかそんな感じだったはずだが、なんにしろ思いがけない発言ではある。

■ガビンによれば、その「だましの手口」はこうだ。「パラッパラッパー」のステージ1。パラッパ君がフルーシ道場でタマネギ先生に免許皆伝をもらうステージ。6つのボタンはそれぞれキック・パンチ・チョップ・ブロック・ダック(ポーズ)・ターン(ジャンプ)に対応していて、プレイヤーはこれらのボタンでパラッパ君を操作して、ラップに乗せてカンフーをする。そういうゲームだ。そう、驚くべきことに、「パラッパラッパー」のステージ1はあくまで「パラッパ君を操作するゲーム」だと言うことができるのだった。

■ところがステージ2以降、ステージ1のようなボタンとアクションの対応は一切なくなり、プレイヤーは一般的な意味ではまったくパラッパ君を操作できなくなる。つまりステージ2以降、ボタンを押すことと画面の中で起きることには実はほとんど関連がなくなっているにもかかわらず、プレイヤーはあくまで画面をゲームだと思い続けることができる。でもそんなことはまったくもってどうでもいいことなのはゴゾンジの通り。これがガビンの言う「インタラクティヴィティの錯覚」。「パラッパラッパー」の賞賛として聞かれた「ボタンを押すことそのものの楽しさ」という言い方は、考えてみるとかなり紙一重だ。

■ゲームはインタラクティヴでなければいけない、と言われるわけだけど、ではインタラクティヴであればあるほどそれはゲームになるか、というとそうじゃないこともやはり明白だと思う。「パラッパラッパー」はあんまりインタラクティヴじゃないからゲームじゃない、なんて言う人はいないわけで。いやむしろ、「パラッパラッパー」のようなやり方が正しくゲームを成立させる方法なんじゃないだろうか。インタラクティヴィテイなんてのはゲームのいわば「きっかけ」にすぎない。

■そして僕が「ゲーム性」という用語を使うなら、このへんの事情を説明するものとしたいと考えるのだった。ものすごく大づかみになるけど”「ゲーム性」とはつまり、コントローラをにぎってモニタを凝視するための「必然性」のことじゃないか。”ここで「必然性」は、ルールであってもデザインであっても、緊張であっても興奮であってもいい。その限りにおいてはプレイヤーをだましてもいい。ともかくゲームが「必然性」を示せば、プレイヤーはモニタの前で必死にボタンを押すのであり、木馬をこぐのであり、ステップの上でケンケンパをするのである。それがプレイがモニタにどのような結果をもたらすとしても、あるいは極端な話なにももたらさないとしても、そのように行われたプレイは「ゲーム」なのだ。このような「必然性」をどのようにゲームの中に仕込むかを考えることが、すなわち「ゲーム性」を考えることになるんじゃないだろうか。


注釈とか余談

  • 木馬をこぐ
    • ナムコの「ファイナルハロン」ですね。いい大人に木馬をこがせるんだからたいしたもんです。
  • ステップの上でケンケンパをする
    • もちろん「ダンスダンスレボリューション」ですな。これとか「ビートマニア」とかを「要するにケンケンパじゃねえか(モグラたたきじゃねえか)」と一蹴する物言いは陳腐なんですが、ほめる側の「リズムにノる快感」とか「リズムにあわせて身体を動かす快感」とかいうのも同等に陳腐だと思うのです。身体を動かすのは楽しいに決まってるではないですか。