think-routine #6 ふたつのゲーム、「ふたつのアクションゲーム」

  • featuring 「ゼルダの伝説 時のオカリナ」

初出:1999-01-27 – http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_06.html


■宮本茂という神は、「スーパーマリオブラザース」とは別のかたちのアクションゲームを人々に示すために「もうひとつのアクションゲーム」を創り、それを「ゼルダの伝説」と名付けた。86年のことだ。

■それってほんとにアクションRPGと呼ぶべきなのだろうかとか、そもそもアクションRPGって何なんだとか、いろいろと議論がカマビスしいところだとは思うのだけど、ここは便宜的にでも「ゼルダの伝説」はアクションRPGであると断言する形で文章を進めるぜ。言いたいのは、アクションゲームにおける「アクション」と、アクションRPGにおける「アクション」とは、その意味するところがちがうということ。アクションゲームにはない「アクション」を提示するために「ゼルダの伝説」が創られたということ。そしていま、その「ふたつのアクションゲーム」が統合されつつあること。それらをここで説明してしまおう。

■たとえば、「スーパーマリオブラザース」というアクションゲームでの「アクション」とは、端的には「ジャンプすること」なのだけど、ここでそれはスーパーマリオというゲームが「プレイヤーにジャンプさせるためにデザインされている」から、「ジャンプすること」が「アクション」なのだ、という意味だと思っていただきたい。つまりアクションゲームにおいては、ゲームシステムなり、フィールドデザインなりという「ゲームとしての要件」が「アクション」の先に立っており、プレイヤーの「アクション」とはそれらによってあらかじめ保障されているものに他ならない、ということ。プレイヤーの行うジャンプという操作は、それ自体が「アクション」なのではなく、ジャンプして穴に落ちないように地形を渡っていくという「予定された行動」を行うことにおいて「アクション」なのであり、そこにおいてアクションゲームの「ゲーム」が成立していると言うべきなのだ。

■そして他方の、「ゼルダの伝説」をそう呼ぶところのアクションRPGにおける「アクション」は、アクションゲームにおける「アクション」とは全く逆の構造を成している。つまりアクションRPGにおいては、プレイヤーによる「アクション」が先にあり、その「アクション」が「可能にすること」に、ゲームシステムとかフィールドデザインとかの「ゲームとしての要件」が規定されている、と言えるんじゃないか。

■アクションゲームにおいては、「そこでプレイヤーにさせたいこと」から逆算して「アクション」が定義されているため、「アクション」とそれによってもたらされる展開には実は因果関係が存在しない。それに対して、アクションRPGにおいては、ある局面にはそうたらしめている「原因」があり、しかるべき「アクション」をすることでその「原因」を解消する必要があるという明確な因果によってゲームが展開する。そのようなアクションゲームにはないゲームの構造を「もうひとつのアクションゲーム」として提出したのが「ゼルダの伝説」だったわけだ。さらには、原理的にはこの時点から「ゲームの箱庭化」が始まったのだともいえる。

■と、ここまではいい。ところが現在事態が尋常でないのは、ほかならぬマリオとゼルダがこの「ふたつのアクションゲーム」をひとつのものにしようとしているからなのだった。「マリオ64」というゲームは、アクションゲームにおける「アクション」を、アクションRPGでいうところの「アクション」に限りなく近づけた。「ゼルダの伝説 時のオカリナ」では、従来「アクションRPGはアクションゲームじゃないから」として許容されてきたアクション性を、アクションRPGとしても納得できる形式を保ちながらアクションゲームとしてのそれに限りなく近づけた。そしてその結果として、この二つのゲームは従来では考えられないほど近い地点に来ているのだ。”「64ゼルダは64マリオの焼き直しだ」とかしたり顔で語る人たちは、過去マリオというゲームとゼルダというゲームが同じ地点にくるなんて事態を一瞬でも考えたことがあったのか。”このように考えるとわれわれはいま信じられないようなクロスポイントに立っている。

■「ゲームの質的転換」なんてフレーズが頭に浮かぶ。「ふたつのアクションゲーム」の創出と、それらの「完全なアクションゲーム」への統合。この偉業が同じただ一人の人物によってなされようとしているのを見ると、宮本茂はやはり「神」と呼ぶほかないのかもしれない。