think-routine #4 『「横スクロール」シューティングに何が可能“だった”のか』

  • featuring 「レイストーム」/「Gダライアス」/「アインハンダー」

初出:1998-12-18 – http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_04.html


■それが、あくまで演出の問題にとどまるのなら、もちろんその演出の得手不得手はあるだろうけど、適切な表現によってそこにわれわれが観たいと思うような映像、したいと思うようなプレイを実現することができるんじゃないかと思う。たとえば、われわれは3次元表現(ポリゴン)による未来のスクロールシューティングを待望することだって可能なはず。それがあくまで演出、あるいはデザインの問題なのならば。

■じっさいその点、「レイストーム」は見事だと思うのだった。「レイストーム」の、ポリゴンで表現された3次元空間とその演出は、まちがいなく前作「レイフォース」の時から、「シルフィード」の時代から、いやもっといえば「ゼビウス」の昔からわれわれが望んでいた映像だったし、それはわれわれが真にプレイしたいと思うゲームにとても近かった、のかもしれない。「レイストーム」の場合、それを立ち上がりの時点でほぼ完璧に作り上げたという事実も評価されていたりするけど、むしろ望むイメージはすでにあり、そのための表現も見えていて、技術だけ足なみがそろってなかったのだと言うべきなんだろう。

■しかし一方、やはり同じ技術・表現を携えて出揃ったいわゆる「横スクロール」のシューティングたちには、「レイストーム」がそうであったような「これが未来だ」という決定感に欠ける印象がある。印象だけどね。確かにいままであったものをポリゴンでやればそうなる。ポリゴンなら視点を変えて見ることだってできる。でも、「横スクロール」シューティングで見たかったものってのは、こういうもんだったかなあ、という思いが拭い去れない。これは単にデキの問題なのかね。

■「Gダライアス」で首をひねり、「アインハンダー」でその首をさらに本格的にねじった僕に、ある仮説が浮かぶ。「サイド・ヴューの、いわゆる『横スクロール』のシューティングゲームにおけるデザイン・演出には、構造的な限界があるのではないか」、そして「そのデザイン・演出の限界はスプライト+BGによる従来式の表現ですでに示されていたのでないか」、という2つだ。つまり、たとえば「レイストーム」と「Gダライアス」、あるいは「アインハンダー」との差とは、必ずしも制作者の才能や技術力の問題ではないのだろうということ。「縦スクロール」に比べて、「横スクロール」はなんらかの形でその可能性が制約されてるんじゃないかということ。その制約を踏み越えることを強引に組み込んだとしても、それは破綻を露呈することにしかならないのかもしれない、ということだ。それをここでは「『横スクロール』シューティングの構造的な限界」と呼んでみようと思う。

■トップ・ヴューの、いわゆる「縦スクロール」のシューティングゲームの画面構成は、画面に対する方向性とでもいうものが希薄で、それがどんな絵だと言い張ることも、たぶん可能だ。たとえば、当然「縦スクロール」のシューティングゲームでは地表を真上から俯瞰する画面が一般的なんだけど、この地表がかりに傾いていたとしても、われわれはそれをそのような場面(自機が地軸に角度を取って飛んでるんだな、とか)として了解することができる。そしてこのように「空間」を了解することが容易な「縦スクロール」シューティングというジャンルは、3次元表現への移行を自然に行うことができる。これは「レイストーム」を見てもらえば一目瞭然。場面をよりリアルに、よりドラマチックに、よりかっこよくみせることが可能だ。

■ところが、どうもこれが「横スクロール」シューティングではできないようなのだ。サイド・ヴューの画面構成というのは絶対的に「天地(つまり、重力の方向によって決定される画面の必然的な「上」と「下」)」が存在しなければならない。その背景には一枚絵としての構成が不可欠で、しかもそれは「動かないか、動いていてもその構成が破綻しない」ものでなければならない。つまりそれはあくまで「平面的」でなければならない。このような画面構成上の限界はもちろん今できたわけじゃなくて、「横スクロール」シューティングというジャンルに暗黙のうちに横たわっていたはずだ。代表的な「横スクロール」シューティングの舞台がすべて(「サイバー」なものも含めて)幻想的な、ある意味シュールな世界に設定されているのも、たぶん偶然じゃない。「真横」から描くものは、図鑑に載っているような側面図とか、あるいは断面図みたいな、どこか超現実的なものにしかなり得ない。一方、自然な画面や、リアルな風景を描こうとすると、今度はたとえば「空と海」とか、「山と雲」のような、典型的な構図から逃れることができなくなってしまうのだ。

■乱暴ないいかたをすれば、「横スクロール」シューティングの画面というのはカキワリ以上のものにならない。「横スクロール」におけるZ軸とは、空間じゃなくて、階層的な「厚み」にすぎない、のじゃあないか。そして単なる「厚み」の表現としては、いままでのスプライト+BG(およびそれに付随する技術)以上の表現は不可能で、それをポリゴンで3次元空間として構成しても、何かが変わるわけじゃないんじゃないか。むしろそれは「『横スクロール』シューティングとしての表現」にタガをかけることになるんじゃないか。これが「『横スクロール』シューティングの構造的な限界」だと、僕は考える。

■ではそこで過去の作品は何をしてきたのか? 「横スクロール」シューティングに何が可能“だった”のか? それはその表現の限界への開き直り、だったのだと思う。すでに書いたように「横スクロール」シューティングの多くは「シュール」だ。プロミネンスにしてもラスタスクロールにしても、それが実際にどのようなシーンを描写しているかより、それそのものの持つインパクトによって「横スクロール」シューティングのリアリティとして成立していたはずだ。「Gダライアス」も「アインハンダー」も、「横スクロール」シューティングだから当然そうしたいのにもかかわらず、空間的に嘘をつけないために歯ぎしりをしている、ように見える。そこでは、「横スクロール」シューティングと3次元表現は完全なダブルバインドになっている。もちろん3次元表現によってカメラワークを駆使するようなデモを用意することができるようになるから、それによって「表現の幅が広がった」と考える向きもあるだろうけど、そのような演出が本来的に「横スクロール」シューティングに望まれていないのだとしたら、そのようなデモは空虚で、脈絡がなく、むしろ「『横スクロール』シューティングの構造的な限界」みたいなものを感じさせてしまうものになるのじゃないだろうか。少なくとも、僕はそう感じている。

■「横シューはポリゴンで作っても無駄っすよ」と言いたいわけではないし、「横シューのゲーム性には欠陥がある」とか言いたいわけでもない。あえて言えば(そして突然こう言ってさしつかえなければ)、「横スクロール」シューティングは「縦スクロール」シューティングよりも成立の根拠がより「ゲーム的」なんだ、ということになるのだろう。そしておそらく、ここから考えないと、「横スクロール」シューティングを「横スクロール」シューティングのまま進化させることは無理なんじゃないかと思う。もちろん、途中にデモシーンが差し挟まれた「横スクロール」シューティングが進化だと思えるなら別なんだけどね。


注釈とか余談

  • 未来のスクロールシューティング
    • 3D/ポリゴンによる未来の固定画面シューティング、というのもだれかが考えていてほしいと思います。個人的には、エクセリオンをリメイクすると楽しそうだ、という妄想があります。
  • 破綻を露呈することにしかならない
    • 「アインハンダー」には、ゲームの途中で視点が変わるシーンがあります。しかしそれは、3次元空間で2次元的にしか動けない不憫な自機と、その弾にわざわざ当たりにくるアタマの悪いザコキャラ、にしか見えません。ああ、やっちゃったよ! だから言ったのに(言ってねえよ)! サイテー! こういうのを「しょせんゲームだから」といって不問に伏すことを僕はしません。しょせんそのようでしかないものを、そう見えないように錯覚させることがゲーム成立の如何だと思っていますから。
  • 図鑑に載っているような側面図
    • もちろん「ダライアス」のことを言っています。
  • 断面図
    • もちろん「グラディウス」の敵要塞面のことを言っています。
  • 歯ぎしりをしている
    • 「アインハンダー」には地下排水溝みたいな「横スクロール」シューティングの典型的な面がありまして、そうするのが当然だから下を流れる排水はラスタスクロールで表現してあるのですが、ボス直前/直後の視点変換によってラスタスクロールの表現は“完全に”破綻します。その2D/3Dの齟齬はほほえましい愛らしいとも思えるのですが、そこまでして行われなければならない「視点変換」あるいは「ラスタスクロール」てのは一体何なのだろうという疑問のほうがちょっと大きかったです。